【犬の短篇10】「待て」
「すいません!やっぱりやめます!」
裸足のまま玄関を飛び出した杏奈は、粗大ゴミの回収作業員に向かって叫んだ。
今まさに積み込もうとしていた作業員は動きを止めると、苛立ちの表情で杏奈をにらんだ。
「……また?」
「はい」
「あのさあ。いい加減にしてくれる?」
「すいません」
作業員は乱暴にトラックのドアを閉めると、怒りをアクセルペダルにぶつけながら帰って行った。
杏奈の前には、薄汚れた犬小屋だけが残った。
10年前の秋。
中学生だった杏奈は両親を説得し、一匹の保護犬を引き取った。
オスのゴールデンレトリバー。
推定年齢1歳。
杏奈は犬に「ガル」と名づけた。
なかなか警戒を解こうとせず、いつもガルルと唸っているからだった。
ガルをしつけるのはとても大変だった。
中でも一番苦労したのは、「待て」を覚えさせること。
「待て」
「ガル、待て」
「待て!」
何回教えても、ガルはなかなかいうことを聞かなかった。
彼が「待て」を覚えてくれたのは、家に来て2ヶ月が過ぎた頃だった。
本当に手のかかる犬。
でもだからこそ、杏奈はガルがかわいくてしかたなかった。
高校生になり、大学生になっても、杏奈は家に帰ると、真っ先に犬小屋をのぞいた。
そこにはいつも、めんどくさそうにしっぽを振るガルがいた。
1年前の春。
ガルは天国へ旅立った。
内臓の疾患だった。
その日から、杏奈は食欲を失った。
みるみるうちに痩せ、入ったばかりの会社を休みがちになった。
たまに出勤しても、仕事中に突然涙が止まらなくなってしまい、周囲を驚かせた。
このままではいけない。
そう思った杏奈は、ガルとの思い出の品を少しずつ処分することにした。
えさ皿。
リード。
ボール。
おもちゃ。
でも、どうしても犬小屋だけは手放す気になれなかった。
回収の予約をしては当日キャンセルするのを何度も繰り返した。
今度こそ処分しよう。
杏奈は心に決めて、電話をかけた。
「粗大ごみの回収お願いします。犬小屋です。希望日は……」
遠くから、トラックの音が近づいてくる。
来た。
二階の部屋でスマホをいじっていた杏奈はその手を止め、窓の外に気持ちを向ける。
トラックが家の前で停まる。
作業員が降りてくる。
いいんだ。
これでいいんだ。
ガタン。
トラックの荷台に、犬小屋を積み込む音がした。
やっぱり嫌だ。
やっぱり無理だ。
杏奈は我慢できずに立ち上がり、部屋を出ようとした。
その時だった。
「待て」
声が聞こえた瞬間、杏奈の体はまるで条件反射のように硬直して動かなくなった。
何これ、どういうこと?
どんなに動こうとしても、まったく動けない。
早く行かないと、ガルの犬小屋が。
「待て」
もう一度、声が聞こえた。
聞こえたというより、頭の中に届いた。
その瞬間、杏奈は声の主に気づいた。
お前なんだね、ガル。
「待て」
「待て」
ガル、わかったよ。
犬小屋、サヨナラした方がいいんだね。
するとその瞬間、体の硬直がすっと解けた。
窓の外で、犬小屋を積み込む音がする。
今ならまだ間に合う。
しかし、杏奈はもう動かなかった。
ガル、ありがとね。
トラックのエンジン音が、ガルの唸り声に聞こえた気がして、杏奈は静かに目を閉じた。