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ダニロ・キシュ紹介~『東欧の想像力』より

ユーゴスラヴィアなるありえない理念を体現した真に唯一のユーゴスラヴィア人だった。異なる民族どうし、殺しあうばかりでなく、豊かにしあうことだってできる、それを証明する唯一の存在がこの男だった。この豊かさこそがダニロ・キシュその人だった。

エステルハージ・ペーテル『ハーン=ハーン伯爵夫人のまなざし』より


 2025年1月、ユーゴスラヴィアの作家ダニロ・キシュの連作短篇集『ボリス・ダヴィドヴィチのための墓』日本語版を刊行しました。キシュ作品はこれまで数作が、山崎佳代子さんや奥彩子さんの翻訳によって日本に紹介されていますが、代表作とされながら未訳のままだった『ボリス・ダヴィドヴィチのための墓』をこのたび、お届けすることができました。

 『死者の百科事典』や『砂時計』など既訳作品をお読みになった方々は、その解説や訳者あとがきを通じて、キシュの生涯や作品・作風をご存知だと思いますが、まだキシュ作品に触れたことのない方もいらっしゃるでしょう。導きのよすがになると思いますので、2016年に刊行した『東欧の想像力 現代東欧文学ガイド』から、キシュの紹介文を転載します。執筆されたのは『ボリス・ダヴィドヴィチのための墓』訳者の奥彩子さんです(『東欧の想像力』掲載時より、暦年表記や作品名の日本語題など一部、修正を加えています)。

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ダニロ・キシュ[1935-1989]


 ダニロ・キシュは、友人の小説家ペキッチによれば、死の直前に「痛いところはあるか」と聞かれ、「人生」と答えたという。

 キシュの人生は幼少のころより移動の連続だった。1935年、ユーゴスラヴィア北部の町スボティツァで、ハンガリー系ユダヤ人の父とモンテネグロ人の母の間に生まれる。2年後ノヴィサドへ引っ越すが、やがてユダヤ人に対する迫害の嵐が迫ってくる。数千人が虐殺された「寒い日々」事件を目撃した後、西ハンガリーの農村に避難するものの、父をはじめ親戚の多くがアウシュヴィッツに移送されて帰らぬ人となった。第二次大戦後、母の生まれ故郷モンテネグロのツェティニェに移り住むが、母は数年後に病死。1954年にベオグラード大学比較文学科に入学し、同輩のミルコ・コヴァチらとの交流を深める。1962年、最初の小説『屋根裏部屋』・『詩篇四四』を刊行する。前者は都会に出てきた若者の懊悩を主題とし、後者はアウシュヴィッツから脱走した女性を主人公としている。そして、子ども時代をもとにした自伝的三部作『庭、灰』(1965)、『若き日の哀しみ』(1967)、『砂時計』(1972)によって作家としての地位を確立した。パリへの「ジョイス的亡命」は1979年のこと。引き金となったのは、スターリン時代の粛清を扱った小説『ボリス・ダヴィドヴィチのための墓』(1976)に対する中傷であった。激しい応酬はついに法廷にまでもつれこむ。裁判には勝利したものの、失望は大きく、1979年にベオグラードを離れてパリに「自由亡命」。1983年に発表した短編小説集『死者の百科事典』がアンドリッチ賞を受賞し、ユーゴスラヴィアの文壇と一応の和解に至った。1989年にパリで死去。遺体は本人の遺言にもとづき、ベオグラードでセルビア正教にのっとって埋葬される。

 キシュは寡作で、生涯に刊行したのは小説7冊とエッセイ集3冊だけ。一口に小説といっても、散文詩風の『若き日の哀しみ』、モザイク小説の『砂時計』から、ボルヘスを思わせる短編小説集『死者の百科事典』まで、その様式は一作ごとに変化している。多様な作品を貫くのは、空疎な作り事はしないという信念である。したがって、作品と作者の人生は密接に結びつくことになる。なかでも自伝的三部作は、キシュを創作に駆り立てることとなった「不安を生み出す差異」──父の喪失とユダヤ性に源を発する抑圧された感情──に取り組んでいる。三部作は自伝的といってもノンフィクションではないし、年代記的な構成もとっていない。少年時代の黒々とした苦痛の記憶を、それぞれにフィクションを織り交ぜながら、異なった手法で描いている。とくに『砂時計』は、キシュの作風である「形式へのこだわり」と「抒情とアイロニーの混合」のひとつの極致を示している。複数の視点(三人称、一人称、対話、実在の手紙)が入れ替わり立ち替わりするなかに、異化、断片化、モンタージュ、羅列、細部への固執、パスティーシュといった技法がふんだんに織りこまれ、読者は、悪夢のような饒舌の迷路をさまようことになる。しかし、苦しみのあとに待っているのは、切実な抒情が夜明けの光となる瞬間である。「苦悩と狂気のゆえに、私は貴方がたよりも、美しく豊かな人生をおくった。」

 キシュを苦しめた差異の感情は深い。土着の文学ではなく、普遍性を志向したのはそれよりほかに道が残されていなかったからである。まさに、真実のものは痛ましさから生まれる。人生と文学の境界に立ち続けるという苦悩から生まれた作品は、いま、アルバハリやヘモンといった、根ざすべき故郷を失ったユーゴスラヴィアの現代作家から深い共感をもって受けとめられている。

奥彩子

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