【10-10】思考と言葉の不一致
思考に言葉が追いつかない、どんなにどんなに急いでみても言葉が思考を追い越すことはなくて、いつでも言葉は置いてきぼりにされて、そして忘れ去られていく。
平生、緊張と弛緩を行ったり来たりしては、思考が加速したり停滞したり、時には考えること自体を放棄して、どこでもない虚空を見つめていたりする時間があったりするのだけれど、どうしようもなく考えが尽きないということも往々にしてあるのです。
論理、表現、修辞、長短、語彙...読書をしたり、知識を得たり、インターネット上の文章を目にした時に、意識の中に入り込んでくる要素はたくさんあるけれど、その情報量が多すぎて、ただ眺めているだけの状態になることもしばしば。
そういう時は、いっそ思考することを放棄して、視覚と聴覚から入ってくる情報を理解しようとしないことにしている。ただただ記録すること、そして一度その情報に触れたのだという点のみに価値を見出して、時間が経った後、改めて理解を試みればいいと割り切っている。
ただ、吸収→理解→選択→表現という一連のプロセスを自分で行うとなった際に、よくよく不具合が生じてしまうのです。頭の中で宙を彷徨っているもやもやとしたもの(思考の種のようなもの)があって、「こういうことを言いたい、表現したい、でも適切な言葉や言い回しが出てこない...!」みたいな状況がそれなりにあったりします。
表現力は言葉の種類の多さ、レトリック、言い回しの幅、語彙の豊かさに起因すると思っているので、ジャンルや領域、そして時代が異なる著作を幅広く読むと、なんだか一瞬だけ自分が評論家や専門家、文豪になれたような気持ちがするのですが、それは本当に気のせいだという自覚も得られます。
ここのところ引越しの準備やら何やらで、あまり読書に時間を割くことができていなかったのもあるのですが、そもそも純文学作品に触れる時間が全然なかったので、また近々読み直したいなぁと思ってます。
さて、穏やかな気候になってきたところで、外の風にふかれてくることにします。
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