球体感覚
1)創立者のことば
25年くらい前のこと…
当時の理事長(本校の創立者)が全国数カ所で講演会をすることになり、秘書役に任命されて同行しました。
私は本校の卒業生でもあり、教員としてもまだ数年しか経っていなかったので、移動の列車や新幹線の中で、隣に座らせてもらうこと自体とても緊張したことを覚えています。
その列車の中で…
「最近の生徒はどうかね?」と先生から質問され、担任もしていたこともあり色々と報告をしました。
次に「親御さんはどうかね?」と質問が続きました。
ちょうどその時、少し難しい保護者の方がおられたこともあり「こんな方がいて困っています」と正直に話しました。
すると…
「北村くん、人はまん丸い球体なんだよ」と…
(私)「…はぁ…(球体⁇)」
言葉の深さもそうですが、私に教えを授けてくれる先生の優しさや私の目線まで降りてきて心に寄り添ってくださる慈愛が伝わってきて深い感銘に包まれました。
「本物の教育者とはこうあるべきなのだ」と…
2)珠玉のことば
大正生まれの創立者は戦前戦後の激動の時代を生き抜いてきました。
今の平和な時代では考えられない過酷な体験をされたことでしょう。
そして私財を投じて学校を創立したのです。
国や県ではなく一個人が学校を造るということは、大変なエネルギーと数多くの苦労が伴い、誰もができることではありません。
いまの自分に置き換えて考えてみても、それは想像の域を遥かに越えるものがあります。
大きな建物を建てるというだけでも大変なことですが、崇高な教育理念、揺るぎない信念を絶えず持ち続けなければ到底成し得ることはできない偉業。
そして「祖国愛と故郷を懐かしむ郷土愛がなければ、理想を描くことは出来ない」という信念のもと「正しく行動するこの国の柱となる人物の養成」という理念を掲げ、先生はその生涯を捧げました。
艱難辛苦を乗り越えてきた人物から発せられる言葉は貴い!
たった一回しか聞いていないわずか1分程の言葉が25年以上経過しても鮮明に記憶に残っています。
心ある人の言葉は、時として「珠玉のことば」へと昇華し深層意識に深く刻まれるのでしょう。
3)人を球体としてイメージ
それ以来、人と接するときは「丸い球体」をイメージすることにしています。
「球体のある一部しか見えていない。見えていない部分の方が多い」
それまでも「人の長所を見るようにしていきたい」と努力していましたが、嫌なところを見てしまうと、どうしても断定してしまいます。
自分にとって苦手な人であっても「球体」だとイメージし360度の視点で考えると、見えていない部分はどうなっているのでしょう?
「人は球体なんだ」と思うことで、苦手な人の嫌な面はある一部であって…
「球体の全体像はわからない」
「良いところが必ずあるはず」
というが意識が芽生えてきたように思います。
そして、人に対して「こういう人だ」と決めつけてしまうことをやめ、人の良いところを見つけるように心掛けるようにしています。
その上で、できる限り「その長所を本人に伝えてあげる(褒める)」ことに努めています。
まとめ
「人が球体ならば、自分も球体なはず」
人も決めつけてはいけないし、自分も決めつけてはいけません。
しかも成長し続ける球体ならば、なおさら人に対しても自分に対しても「こうだ!」と決めつけてはいけない。
このような「球体感覚」を養っていきたいと思います。
教育に携わる者にとって気をつけておくべき大切なこと。
「人は誰もまん丸い球体なんだよ」
慈愛溢れる先生の言葉がいまも心に響いています。
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