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『理趣経』はただのエロ経典ではない!
【エロ経典】として【性なる経典】として一部でお馴染みの『理趣経』
ロータスラジオで「最澄VS空海編」を作るにあたって、どうしても必要なので読んでみたら、すっごいいいお経だったので紹介する。
(『理趣経』を巡って最澄と空海がどのように決別したか、気になる人は是非ロータスラジオ「最澄の生涯編」をご覧ください)
『理趣経』はいきなりこんなことを言い出す
性の快楽は、如来の眼から見れば、清浄なのですから、菩薩の資格があるのです。
性の快楽を得ようとする欲望は、如来の眼から見れば、清浄なのですから、菩薩の資格があるのです。
男女が抱き合う行為は、如来の眼から見れば、清浄なのですから、菩薩の資格があるのです。
男女が離れがたく思う心は、如来の眼から見れば、清浄なのですから、菩薩の資格があるのです。
少しでも仏教のことをかじった人間なら、「えー!?」という感じである。いや、仏教のことを全然知らない人でも「それはまずいっしょ…」というレベルである。
さらに「イッチャッテル」表現が続く。
男女が性行為をして味わう快感は、如来の眼から見れば、清浄なのですから、菩薩の資格があるのです。
性行為を終えて男女が離れがたく思う愛情は、如来の眼から見れば、清浄なのですから、菩薩の資格があるのです。
男女が性行為を終えて、世界の主になったような気分にひたる満足感は、如来の眼から見れば、清浄なのですから、菩薩の資格があるのです。
もう超露骨である…
「性行為を終えて、世界の主になったような気分にひたる…」って、どんな具体的な感想だよって突っ込みたくなる。きっとこの経典の制作者の個人的感想が発露してしまったのであろう。でもまあ…わかんなくはない。
※「一切自在主清淨句是菩薩位」の正木訳だけど、本当に合ってんのかは疑問。他の解釈もあり。
さて、これだけ読むと、たしかに「トンデモ経典」である。
でもその後にすっごくいいことが書いてある。
自然界が光り輝くことは、如来の眼から見れば、清浄なのですから、菩薩の資格があるのです。
自然界からさまざまな歓びを得る行為は、如来の眼から見れば、清浄なのですから、菩薩の資格があるのです。
この世のすベての色形あるものは、如来の眼から見れば、清浄なのですから、菩薩の資格があるのです。
エロい欲望の肯定から始まった経典は、やがて自然界すべてを肯定していく。「自然界が光り輝き」、そこから「さまざまな歓びを得る」ことを肯定してくれる。なんか同じこと言っているのに、「自然界が輝く」って言われると急に性行為とかも尊く感じられるから不思議。言葉のマジックだろうか。でも「世界ってなんて美しいんだろう、なんて愛おしいんだろう」って思うこともあるから、この表現はすごく直観に合致してる。てか『理趣経』の文句はいちいち具体的に「そうだよね~」っていう事例を挙げてるからすごいなと思う(まあ、訳のせいでもあるけども)。
※正木訳「自然界が光り輝くことは~」の原文は「光明清淨句是菩薩位」だが、これもここまで突っ込んで訳していいのかは謎。でも素敵な解釈だなとは思う。
そうして『理趣経』はこの煩悩まみれの我々に福音とも言うべき言葉をなげかける。
金剛手よ、誰であろうと、もしも性の快楽をはじめ、もろもろの感情も行為も存在も、如来の眼から見れば、清浄だという悟りを生み出す智恵の教えを、聞く機会があるならば、その人はありとあらゆる心の汚れを浄められるのです。
したがって、悟りを求めて修行にはげむ過程において、無知という障害があろうとも、煩悩という障害があろうとも、正法を聞けないという障害があろうとも、前世から引き継いだ重い罪という障害があろうとも、さらにはこれらがみな重なっているとしても、絶対に地獄に堕ちたりはしません。たとえ重い罪をつくろうとも、それを消滅させることは、けっして難しくありません。
なんて心強い言葉だろう!
というかこの経典を書いた人は本当にダメダメな自分と向き合って苦しんだんだろうな~というのが感じられる。その上で、「それでもきっと大丈夫!」って場所に行きついたんだろうなという感じがする。背中をどんと押してくれる気がする。
ましてや、この教えを心にとめて忘れないようにし、毎日毎夜に読誦し暗唱し、絶えず思うならば、この世で生きているうちに、ありとあらゆることがらの本性を見抜き、この世のすベての感情も行為も存在も、あるいは森羅万象も、みな差別なく等しく、光り輝いているという、ダイヤモンドのごとき永遠不滅の境地に到達できるのです。
「この世のすベての感情も行為も存在も、あるいは森羅万象も、みな差別なく等しく、光り輝いているという、ダイヤモンドのごとき永遠不滅の境地」
素敵だな~こんな境地に行きたいな~と思わせてくれる。
「一切皆空」とか「色即是空、空即是色」とか「煩悩即菩提」なんかよりも、よっぽど心にくる、ぐっとくる。
というわけで、僕のような煩悩&性欲まみれの生臭坊主には『理趣経』は本当に素敵な経典だなと思いました。元気が出ます。
興味のある人は是非読んでみましょう。
訳は基本的に正木 晃 (著)『読んで深まる、書いて堪能する「般若理趣経」』を引用しましたが、正木訳は結構大胆に突っ込んでいるので、適宜下記の原文(漢文&サンスクリット)を参照しました。
https://www.manpukujitochigi.or.jp/pdf/note_RishuKyou.pdf
最後に僕の大好きな「理趣経・初段」の抜粋(正木訳)を挙げておく。きっと日常の苦しみの中で瞑想にはげむ実践者には大いなるエールになるはず!
こうして、大日如来は、この世のありとあらゆる存在も行為も、もとよりことごとく清浄であるという真理を、お說きになったのです。
性の快楽は、如来の眼から見れば、清浄なのですから、菩薩の資格があるのです。
性の快楽を得ようとする欲望は、如来の眼から見れば、清浄なのですから、菩薩の資格があるのです。
男女が抱き合う行為は、如来の眼から見れば、清浄なのですから、菩薩の資格があるのです。
男女が離れがたく思う心は、如来の眼から見れば、清浄なのですから、菩薩の資格があるのです。
思い叶って満足し、自分にはなんでもできると信じ込む心境は、如来の眼から見れば、清浄なのですから、菩薩の資格があるのです。
欲心を秘め異性を見て歓びを感じる心は、如来の眼から見れば、清浄なのですから、菩薩の資格があるのです。
男女が性行為をして味わう快感は、如来の眼から見れば、清浄なのですから、菩薩の資格があるのです。
性行為を終えて男女が離れがたく思う愛情は、如来の眼から見れば、清浄なのですから、菩薩の資格があるのです。
男女が性行為を終えて、世界の主になったような気分にひたる満足感は、如来の眼から見れば、清浄なのですから、菩薩の資格があるのです。
自分の外観を美しく飾る行為は、如来の眼から見れば、清浄なのですから、菩薩の資格があるのです。
すべてを思いどおりに充実させる行為は、如来の眼から見れば、清浄なのですから、菩薩の資格があるのです。
自然界が光り輝くことは、如来の眼から見れば、清浄なのですから、菩薩の資格があるのです。
自然界からさまざまな歓びを得る行為は、如来の眼から見れば、清浄なのですから、菩薩の資格があるのです。
この世のすベての色形あるものは、如来の眼から見れば、清浄なのですから、菩薩の資格があるのです。
この世のすベての音声は、如来の眼から見れば、清浄なのですから、菩薩の資格があるのです。
この世のすベての香は、如来の眼から見れば、清浄なのですから、菩薩の資格があるのです。
この世のすベての味は、如来の眼から見れば、清浄なのですから、菩薩の資格があるのです。
そもそも、なぜ、この世のすベての感情も行為も存在も、ことごとく清浄なのか。それは、この世のすベての感情も行為も存在も、如来の眼から見れば、清浄なのですから、この世のすベてをありのままに見抜く悟りもまた清净のです。
金剛手よ、誰であろうと、もしも性の快楽をはじめ、もろもろの感情も行為も存在も、如来の眼から見れば、清浄だという悟りを生み出す智恵の教えを、聞く機会があるならば、その人はありとあらゆる心の汚れを浄められるのです。
したがって、悟りを求めて修行にはげむ過程において、無知という障害があろうとも、煩悩という障害があろうとも、正法を聞けないという障害があろうとも、前世から引き継いだ重い罪という障害があろうとも、さらにはこれらがみな重なっているとしても、絶対に地獄に堕ちたりはしません。たとえ重い罪をつくろうとも、それを消滅させることは、けっして難しくありません。
ましてや、この教えを心にとめて忘れないようにし、毎日毎夜に読誦し暗唱し、絶えず思うならば、この世で生きているうちに、ありとあらゆることがらの本性を見抜き、この世のすベての感情も行為も存在も、あるいは森羅万象も、みな差別なく等しく、光り輝いているという、ダイヤモンドのごとき永遠不滅の境地に到達できるのです。
その結果、この世のかりそめのすがたかたちに惑わされることなく、自在に駆使する力を得て、絕対的な自由を体得し、無限の歡びを満喫できるのです。