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長編小説『老人駅伝』⑪

 1話から10話まではこちらから↓

 なぁんてこった。
 私も妻も、当日は疲れているのにろくに眠れず、朝起きたら、今度はパニックに襲われて、双方無茶苦茶な言動を繰り返しながら喧嘩した。
「あれだわ、本番で結果が出ないタイプの子なんだわ。あんないい走りをするのに、もったいなさすぎるわよ! だから陸上が強い大学に行かなかったのね、納得。納得してられない! 駅伝をやめるだなんて! 走るのをやめるだなんて! 才能が、あぁ才能が!」
「ダメだ! インターホンを押したが、川外君が出てこない! くそぉ、一回上手くいかなかっただけじゃないか。あと一か月あるんだ。どうにでもなるだろ。駅伝に出ないなんて、なんで急にそんなことを!」
「このまま黙ってはられないわ! 今日絶対に捕まえて説得する! あの才能を捨てるわけにはいかない!」
「俺は川外勇也を!」
「先に梨々香よ!」
「優先順位なんてないぞ!」
「あの才能を無駄にする気? 私は嫌よ!」
「俺だって――」
「黙って」
「はぁ?」
「私、今から行って説得してくる!」
「ちょっと待て、梨々香がどこにいるのか知って――おい、お前! ちょっと待て! ……あぁ、くそ」
 妻は家から飛び出していた。こういうところあるんだよ、私の妻は。冷静なように見えて、自分の思い通りにいかないとすぐに激情するんだ。
 妻が飛び出してから、もちろん私も悩みにふけった。どう二人を呼び戻すかを考えた。四天王作戦を使おうかとも考えたが、四天王が用意できないし、何よりあの作戦は、戻りたいと思っている人の背中を押す作戦だ。私の気持ちが非常に焦っていたため、高橋望には一か八かで作戦をかけただけで、今の私も焦ってはいるのだが、どうも本人たちの気持ちの方に歩み寄ってしまい、気が乗らない。成功するビジョンが見えない。
 私に何ができるのだろうか。何もできまい。
 美しいフォームを持っていて、現役で結果を出し続けている妻なら説得できるかもしれない。仕事をしながらも記録を更新し続けた妻なら説得できるかもしれない。それなら、妻の思うようにさせた方が望みが大きい。彼女の力で、梨々香は戻ってくるかもしれない。でも、川外勇也は無理だろうな。
 無力感に襲われた。無力感を空腹にねじ曲げて、私は朝ごはんを食べることにした。玄米に味噌汁、納豆に、野菜、牛乳。健康的で、庶民的な食事だ。ほとんど毎日これを食べている。ジャムパンが少し食べたくなる時もある。テレビをつける気にも、ラジオをつける気にもならなかった。朝の番組は長寿番組が多い。何年も続けて司会を続けている芸能人が、毎日働く社会人や、学生に向けてメッセージを放つ。今はそんな番組を見たくはなかった。老人に向けた番組も数多に存在する。それも見たくはなかった。無力感が増すだけだ。
 とはいえ、静かな空間でも無力感が増すんだな、これが。
 別の人を今から探すべきだろうか。この市の近辺に、中年層で有力なランナーがいることは昨日でよくわかった。今からでも、その人たちを勧誘し、新たなチームを作る。入ってきた二人がどんなに遅く、どんなにチームの和を乱したとしても、駅伝に参加はできる。私が内石と戦う舞台には立てる。直接戦うことはできなくても、タイム上で戦うことができるって意味だが。梨々香と川外勇也だからといって、私が内石と直接対決できるとは限らない。当たり前だ。駅伝の終盤区間で、特定の誰かと戦おうと思うのがそもそも非現実的なのだ。梨々香じゃなくてもいい。川外勇也じゃなくてもいい。のか? そう考えると、どんどん思考は歪んでいき、私が駅伝に参加する理由に悩み始める。何度も何度も考えては、自分の中で曖昧にしてきたものだ。この駅伝で、私は内石と戦うことなんてできない。そんなこと、駅伝の仕組みを知っている私なら、妻から話を聞いた瞬間にわかっていたはずなのに、何故「絶対に出ない!」と断固として言い放たず、流されるまま練習に入り込んでいったのだろう。その結果、今や内石がいる場所とは遥か遠方の問題に頭を悩まされている。
 ふと気が付いた時には、私はランニングシューズの紐を結んでいた。いつの間にか服もジャージに変わっている。
「昨日は大会だったから、今日は軽めに走るか」
 なんて呟いている始末。
 残念ながら、これが私の暫定的な答えらしい。
 駅伝で、打倒内石。現実的ではない。もう頭がぼけているのかもしれない。ぼけた私の頭は、問題を先延ばしにした。
 二人をどう呼び戻すかは、走ってから考えよう、と。
 アップの後、軽く十五分くらいのジョグをするにとどめ、家に帰ってきた。もちろん、二人を呼び戻す方法は思いついていない。シャワーを浴び、昼食を作る。妻は朝ごはんも食べずに飛び出していった。食事への熱量は常に最高潮の妻が、それをすっぽかすとは、よっぽど梨々香に期待をしていたということだろう。梨々香の走りは美しく強いのだ。妻への昼食は少なめにして、私は一人、ゆで卵と、サラダチキンを食べる。あんまり味がしない。せっかく妻の監視がないのだから、カップラーメンなり、ポテトチップスなりをむしゃむしゃ頬張ってもよかったが、そういう気分にはならなかった。
 結局妻は帰ってこず、私は彼女の料理にラップをかけ、ソファに座り込んだ。なんだかすごく寂しかった。鳥のさえずりが聞こえる。自分がソファの上で体を動かす時に発生する、生地との摩擦音まで聞こえてきやがる。やはりテレビでもつけようか。いや、テレビをつけたら、より寂しくなるような気がした。体が重い。昨日走ったからだろうか。しかし、口が一番重いのは何故だろうか。普段は、休ませたくとも動かさなければならない口を、今日は休ませていられるではないか。口の重みを解除させようと、何か喋ってみようとした。喋ることが思いつかず、何もできなかった。歌ってみようとした。怖かったからやめた。
 私は目を閉じた。それしかやることがなかったからだ。いや、あるにはあったが、今の間は少しだけ、考えるのが面倒くさかった。疲労がじんわりと、血液の中と、皮膚の上を流れるのがわかる。緊張の糸が突然消えることってあるよな。そんな感じだ。
 チャイムが鳴った。お客様か、質の悪い訪問販売員か、宗教の勧誘かの、どれかだ。私はうんざりした気分で立ち上がった。
別に言わなくてもいいんだけどな、何故かその時、私の瞳からは涙が流れていた。
 ドアを開けると、鈴木梨々香が立っていた。

 私は一瞬言葉に詰まった。
「おっ、梨々香……」
「こんにちは」
 私はぎこちなく、梨々香を家の中に案内した。寝ぐせを直し(直す程の毛量はない)、服の皴を伸ばし(そんなことをしてもみすぼらしさは変わらない服だ)、リビングの椅子に座ってもらう。梨々香の表情は、あからさまに普段より暗かった。暗いというより、病人のように青白かった。部屋の照明の質を疑う程だった。
「妻は君を探して朝から出かけて行ったんだが」
「そうなんですか! ……会ってないです」
「電話しようか」
「いえ、弓子さんだとちょっと緊張してしまうんで、義雄さんが……」
 喜んでいいのか、これ。
「それで、何を?」
「謝りにきました。昨日の試合内容もそうですし」
「そんな、俺は先生じゃないんだから」
「駅伝をやめると言い出したことも」
「あぁ……本当にその気持ちなんだね。昨日は、走るのもやめると」
「はい」
 私は梨々香の目を見ようとしたが、彼女は目を上げなかった。私が一番やりたかったことは、「やめるなあああ!」と叫ぶこと。しかし、それをやったところで、彼女の気持ちが百八十度ひっくり返ることも、私の気分が晴れることもないだろう。でも、もう少しだけ梨々香と喋っていたかった。才能があるとかないとかは凡人ランナーである私にはわからないが、梨々香の走りは、私の心を大いに動かした、ということだけは事実だ。もしかしたら、今私が駅伝に向けてこんなにも本気でいられるのも、彼女のおかげかもしれない。どうして、どうして走るのまでやめてしまうのだろう。
「昔から、本番は苦手だったのかい?」
 梨々香は頷き、用意していたように、過去を語り出した。
「はい。苦手なんてものじゃありませんよ。
 ……陸上を始めたのは、中学生の頃からです。病弱な体質だったので、体力とか、心肺機能とかがつけれたらいいな、くらいの気持ちで部活に入りました。とても規模が小さい部活で、長距離をやっているのは私一人でした。一人だからさぼったらばれるな、と入ったことを後悔しながら、でもとりあえず頑張って走りました。すると、先生が凄く褒めてくれるんです。頑張ってるから褒めてくれているんだと、嬉しく思いましたが、どうも違ったみたいで、ある時、試合に出てみないかと言われたんです。試合なんて、遠い遠い存在でした。私の中に、全く自分が他の選手たちと競っている図が浮かび上がってきませんでした。それに、走りたくはありませんでした。私にとって走ることは、頑張ることだったんです。競って勝つことじゃなかったんです。
 でも、試合に出ました。いつも褒めてくれる先生が出ないか、と聞いてくれたんですから、出ました」
「一回目から、上手く走れなかったのかい?」
「はい。でも、全然ダメダメってわけではありませんでした。ちょっと見方を変えれば、初めてにしてはよくできたな、と言われるような走りです。実際、先生もそう言ってくれました。むしろ、先生はそれで何か、火がついたみたいなんです。練習は激しく、厳しく、後輩も入ってきて、より熱が入って、まるで競技が変わったみたいに、全てが変わりました」
 梨々香はその厳しい練習に頑張ってついていった。ついていけた。完璧に近い走りまで披露した。そして本番では走れなくなっていった。
「高校生になっても陸上を続けたのは、先生が何度も私に謝ってくれたからです。結果を出してあげられずにごめんって、でも高校でもやめずに頑張って欲しいって」
 でも、結果は同じだった。むしろ悪化した。
「高校では、先生も選手もたくさんいて、入学前に思っていたより強豪校でした。駅伝チームが作れる人数が揃っていて、駅伝で県大会以上をとることが目標でした。練習は中学の時よりもさらに激しく、厳しくなって、でも私は頑張ってくらいついていったんで、ちょっとは上手くいくんじゃないかと思ったんですけどね……」
 ここまで成功しない選手を見たことがない。と、妻の言葉を代弁しておこう。
「どうして、なんだろうな」
 梨々香は肩をすくめた。
「普通に、緊張かもしれません。それか、期待がプレッシャーになったのかもしれません。仲間の想いがプレッシャーになったのかもしれません。自信のなさかもしれません。闘争心の欠如かもしれません。失敗を恐れているからかもしれません。なんというか、その……わかりませんね」
 彼女は笑った。哀しげな茶目っ気が香り出た。
「大学に入っても走っていたのは、ただの惰性です。幸い、一人でしたし、監督もいませんでしたから。だから、また勘違いしたんでしょうね。ちょっとは走れるようになったかな、と。変わっているはずがありませんよね。変わっていませんでした。義雄さんも、酷い走りだと思ったでしょう。もう嫌です。もう何年も陸上をやっているんです。大会で輝きたいと、いくらなんでも思ってしまいます。ましてや、駅伝。私がこんな走りでは、義雄さんたちに迷惑をかけてしまいます。勝てないなら、力になれないなら、走りたくないです。走る意味が見出せません」
 言うべき言葉が見つからなかった。見つかった言葉は、「そうか」「わかった」「仕方がないな」なんてものだらけで、それは会話を終わらせてしまう了の字だった。そうはしたくなかった。なんとか会話を続けたかった。とりあえず、私にあるのは無駄に積み重ねた人生だけだから、何の考えもなしに、とりあえず堆積を口に出しておく。別に妻の帰還を頼みにした時間稼ぎではない。ただ、続けたかった。私の年齢は六十五歳だから。六十五歳分くらい話したら、結論が訪れるだろうとは思っていた。自分でも意味がわからないが、そういう確信があった。何故なら、この時の私はまだ気がついていないが、それこそが答えだったからだ。認知していない頭のある部分には、結論が既に存在していた。当時の私にとっては、その結論が自分から出てきたことに驚愕したんだが、今ならよくわかる。よくわかるんだよ、そうだろ? 七区の三浦義雄選手よ。
 私は梨々香に、私が駅伝に参加を決意したいきさつを話した。つまり、小学生の頃から内石には負け続け、劣等感が募っていき、高校三年生の秋、最後の駅伝で大打撃を受けたことを。
「それで、陸上をやめてしまったんですね……」」
 話を聞いた梨々香は呟くようにそう言った。
 私は一度頷いた。が、首を振った。
「いや」
 そう、最後の駅伝で負けたのは、いわば自分を守るために用意した別の死因に過ぎない。病死や孤独死は惨めで嫌だから、名誉ある戦死を自分で作り出したということだ。
最後の駅伝の大敗北は、なんだか映画みたいに悲劇的だよな。陸上をやめる口実にしやすい。だから最後の駅伝に逃げることで、本当の敗北と、それからの寂しくも退屈な長い負け犬年月から心を守っていたのだ。もちろん自分ではよくわかっていた。滲み出る血は隠せなかった。ましてや、再び走ることを決断した今、再び内石と相まみえる決意をした今、傷はより力を増し、絆創膏や包帯では防ぎきれなくなった。しかし、捉えようによっては再び向き合うチャンスであった。何故なら、私はまだ生きているんだし、目の前には決断を迫られている、どうしても助けてあげたい若者の姿があったからだ。
「陸上をやめたわけじゃない、その時は、まだ。私は一般入試で、内石と同じ大学に進んだんだ。もちろん、他の大学に進学し、大会かなんかで内石をぶっ倒すっていう選択肢もあったんだが、それは逃げていると感じたんだ、当時の私はね。推薦で入った優秀選手を、一般で入った私が倒すのには夢があったし、毎日練習があって、毎日勝てば、これまでの敗北を余裕で消し去ることができるじゃないかと思ったわけだ。……ははは、まぁ恐ろしく馬鹿な思考回路なんだが、まぁ、そんなことを思っていたんだ。
 入ってからは、もちろん対抗心剥き出しだ。やつとは全く喋らないようにした。常に敵意を剥き出しにしていた。タイプ的に、私は情熱系で、やつは冷静系だったから、そのクールな感じも腹が立ったよ。周りは、私が桜木であいつが流川だと言っていたかな……すまない、スルーしてくれ。
 ……ただ、今となっては、同じ大学に入ったのが仇となった。内石は、大学一年生では新しい練習に中々慣れずに、怪我をしがちだったんだ。ほとんどまともに練習できた日はなかったんじゃないかな。一方私は、元気そのもの。春から絶好調で、一年生の中では一番強度の高い練習をこなせていた」
「練習だけ」
「そうだ。練習だけな。学校内でやるタイムトライアルでは内石に勝てても、大会ではどうしてもあいつに勝てなかった。一度もだ。本番にめっぽう弱いって選手ではなかったはずなんだが、とにかく上手くいかなかった。まぁ確かに、少ない練習量で結果を出す内石はそりゃ化物だったさ。それにしても、だ。練習では確実に私の方が走れていたんだ。先生も頭を抱えていたよ。緊張か、感情が高ぶり過ぎなのか、アップのしすぎか、前半飛ばしすぎたか……なんだかな、わからん」
 私も肩をすくめた。梨々香はちょっとだけ笑った。
「私は落ち込み、焦り、怒った。どうして勝てないのか考えては、もっと練習をしなければいけないとの結論に辿り着いた。だからたくさん練習をして、たくさん練習をして、大会で負けた。ただでさえきつく、吐く人続出の夏合宿でも、私は居残りで走った。人の倍吐いた。内石は、怪我で夏合宿中は走っていない。しかし、夏明けの大会では負けた。駅伝の選考がかかった重要なレースだった。同じ組で走ったんだが、私はレース中で一度も、彼の前を走ることができなかった。どうしてだ、とまた考える。先生はあれこれ言ってくれるが、正直言って頭に入ってこなかった。どうしてだ、とまた考える。走っている最中から考える。そしてまた練習する。練習する。
駅伝の選考レースは二つ指定されていた。一つ目で負けた私は、二つ目でなんとか内石に勝って監督にアピールをする必要があった。そのままでは、内石がエース区間を走る勢いだったんだ。それだけは阻止したかった。が、負けた。いいところなしで、負けてしまったんだ。
ゴールした後に地面に倒れてしまう悪い癖が私にはあったんだが、その大会で、倒れた私の横を、勝利した内石が涼しい顔をして歩く姿を下から見上げた時だった。それまで燃えていた魂っていうんかな、そういう熱いエネルギーみたいなものが、急激に冷えて消えた。熱されて赤くなった鉄を水につけたみたいに、ジュッ、って音を立てて消えたよ。当然あいつは何も言わないさ。それが私を傷つけるのに最善だと知っているからな。黙って、口角を僅かに吊り上げて、見下す」
 その瞳は確実に言っていた。
〈意味あった? そんなに練習した意味。遅くね〉
 口の中に苦味がじわりと広がった。乾燥していた。水を口に含んだところ、血の味がした。くそっ。もっと面白い挫折なら語りがいがあると言うのに。地味で、ありきたりで、情けない。不甲斐ない、自分が。
「そして、練習に行くのをやめた。走るのを、やめた」
 だが、ここで話すのをやめてはならない。
 私は梨々香の瞳を見た。一瞬目が合い、梨々香はすぐさま目を逸らしたが、私は逸らさなかった。それを感じ取ってか、梨々香はもう一度、訝しげではあるが、私の瞳を見つめた。
「後悔している。とても、とても後悔している。内石に勝てなかったことをじゃない。勝つ努力をし続けなかったことをでもない。
走ることをやめたのを、後悔している。
私は、走るのが好きだったんだ。走るのが好きだから、内石に勝てないのが悔しかったんだ。負け続けても、走り続ければよかった。結果が出ないから走る意味がないと、思わなければよかった。走ることを素直に楽しめば、あいつに勝てたかもしれない。
走るのは楽しいんだ。風を切るのは気持ちいいんだ。全力で走り終わった後の、苦しみの中に達成感があるあの感じ。朝、夜明けと共に走る。海辺を走る。散歩している人に応援されながら走る。他の部活のやつらや、通学路を歩く小学生たちに『はやっ』とか言われる。全部楽しいんだ。
走り続けていれば、私の人生はもっと…………私は四十年間、何をしていたんだ」
 自分で言ってるくせに、目頭が熱くなるってのは、なんて情けない話だ。頭も心も追いついていない。理路整然とは真逆の境地だ。
「梨々香。最後に一度、真剣に考えて欲しい。走るのが好きかどうか。陸上競技が好きかどうかはどうでもいい。駅伝のメンバーがどうのこうのなんて、もっとどうでもいい。
もし走るのが好きならば、やめちゃダメだよ、梨々香。嫌いなら、やめればいい。ユニフォームなんて焼いて、ビリビリに裂いてそこら辺に捨ててしまえばいい。でも何かによって、嫌いだと思わされているのなら、絶対に、絶対にやめちゃだめだよ。試合で結果が出せないことより、遥かに辛い気持ちになるから」
「……と思う」
 梨々香は喋らなかった。怒ったかな、とか、偉そうにこいつ、とか思われているかなとビクビクとしつつも、私の心は珍しくずっしりと構えていて、何をするべきかがおのずとわかった。
 私が席を立つと、梨々香も席を立った。
「わかりません、私」
「うん。ゆっくり考えてみるといい、わかるまで」
 偉そうに。
「ありがとうございます」
 梨々香が帰って十分くらい後に、妻が疲労困憊で帰ってきた。
「ダメだ。大学に行ったけど見つけられんかった。くぅ。絶対に諦めん」
 ばれたら絶対に怒られる……最悪殺されるかもしれないが、私は妻には何も言わないことにした。あまりに横暴な独断で、自分でも笑えるが、今は梨々香を一人にさせてあげたかった。
 とりあえず、何か感づかれてあれこれ追求される前に、逃げるとしよう。
「じゃあ、行ってくるわー」
「えっ、どこによ!」
「言ったろ、飲みだよ。昨日会ったランナーたちと」
「いいわねぇ、悩み事がなさそうで」
「それを解決するためにの戦略的撤退だ」
「はいはいそうですか。老人は暇でいいですね」
「お前もだろ」
「私は忙しいんですー、もう一回電話してみるから」
 妻に申し訳なさを感じつつも、私は靴を履いて外に出た。寒さはあまり感じない。


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