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長編小説『老人駅伝』⑱

・四区 一般男子 川外勇也

 川外勇也は、伊藤隼斗から襷を受け取った。表情は些かの驚愕。二十番台でくる予測だったが、十位で回ってきたことによるものだろう。
 川外勇也は走り出した。見える範囲に、選手が三人。後方十一位とは結構な距離があるので、暫くは抜かれる心配はない。慎重な走り出しを見せていった。

 ……七時に目を覚ますことが多い。起きるともう、体が痛い。痛さのあまり呻くことはないが、いずれ痛みが巨大化しそうな気配は感じる。年を取ったとは言いたくないが、そう思っているのは口だけかもしれない。枕の臭いを嗅ぐのが怖い。
 妻が作ってくれた朝食を食べた後に、仕事の準備をする。髭を剃ったり、髪を整えたり。かれこれ二十年近くやっている動作だ。まだ頭は眠ったままだ。
 八時に家を出る。電車に乗る。少し混んでいる。満員電車の死んだ雰囲気にも慣れてしまった。八時半に職場につけばいい。遅刻はしない。五分前には自分のデスクに座っている。座っているだけだ。仕事は八時半から始める。とてもじゃないが、早く始める気にはならない。
 私はとあるスーパーマーケットの店長をしている。店長と言えば聞こえはいいが、三年前に担当し出した時から大赤字の、落ち目の古びた店舗の長だ。リーダーというよりも、しんがりの感覚に近い。建物の老朽化に伴う設備維持費、新規競合他店の誕生、などなど、私ではどうしようもないマイナス要素ばかりで、とても業績の回復は見込めない。とにかく忙しい。毎日やらなければならないことが無限にある。ただ、その忙しさは利益の増加に繋がるものではなく、所詮延命措置に過ぎない。上層部は、この店舗で稼ぐ気はないらしい。数年後には、建物自体を取り壊して更地にする計画もあると聞いた。
 節電のために、バックヤードの電灯は、半分以上消している。廊下は薄暗く、エアコンも節電のためつけていないところが多く、肌寒い。すれ違う従業員やアルバイトからは覇気を全く感じない。ゴキブリが廊下を横切った。
 人件費も削減しなければならない。今いるアルバイトを切るのはあまりに残酷なので、新しいアルバイトを受け入れないことにした。当然、反発は大きい。アルバイトを辞める人は自然と生まれるが、その穴を埋めないのだから、単純に残ったアルバイトや従業員個人の仕事量が増える。社員アンケートでは、全ての部署から人が足りないとクレームがきた。それでもなんとか一日のサイクルが終わるくらいの体制は維持していたが、これでは確実に成功はない。いつかは崩壊するだろう。社員からは、昔の店長の方が喋ってくれて雰囲気が良かった、と噂話をされている。私が少しでも現場を助けようとアルバイトの品出しの仕事を手伝った時には、「他にもっとやることがあるだろ」というアルバイト同士の陰口を聞いてしまったこともある。
 パソコンの電源を消して顔を上げると、九時から九時半であることが多い。かなりの残業だが、日常と化しているため、特別な感情は引き起こされない。私は表情を変えず、素早くともノロノロともとれない動きで帰りの支度をし、帰る。十時に家に帰り、お風呂に入り、夕食をとる。歯磨きや洗濯物、洗い物の処理をしていると、十二時を回っている。寝る。
 私の日常だ。四十七歳。
 そんな時に、義雄さんから電話が入った。
「駅伝に出ないか?」
私は、この方に頭が上がらない。というのも、私の双子の子どもたちが小学校から大学に行くまで、私は単身赴任で他県で働いていたのだが、私がいない内に、双子が三浦一家に信じられないちょっかいをかけていたからだ。詳細については省くが、要は三浦家に多大なるご迷惑をかけたということだ。
 義雄さんの話はほとんど意味がわからなかった。今更走ることなど、頭の片隅にもなかったので、断る選択肢しかないはずなのに、中途半端な受け答えになってしまう。私の悪い癖だ。すると、そうやって空いた私の隙に、義雄さんが過去の子どもたちとの出来事という恐ろしい武器を担いで入り込んできた。私は強気に出る術を失い、なんとなく、駅伝に出るような流れに巻き込まれてしまった。

 水曜の午後と、日曜の午前に練習があると告げられたが、行くのは不可能だった。私の仕事は休みが不定期で、日曜だから休日というわけではないし、当たり前のように残業がある。間に合わない。第一、駅伝を目指すのであれば、週二日の練習では足りない。できれば毎日走りたいところだ。そんな時間は絶対にない。加えて、私が走れるとでもいうのか。確かに学生時代は長距離走をやっていたが、強い選手ではなく、分類されるのならば弱い選手だ。県大会に辛うじて出るくらいで、誰からも認識されなかった。あれから二十年近くが経過していた。太り、あちこちが痛み、走れる実感も意気込みも一切ない。二か月後の大会までに、五キロを走りきれる体になっているとさえ思えない。私は四十七歳だ。寂れた大手スーパーマーケット勤務の、冴えない初老の男だ。走るための時間はなく、走れる体になる見込みはなく、怪我する見込みなら大いにある。
 なので私は、申し訳なさを感じつつも、義雄さんに初回の練習は参加できない旨をメールで伝えた。そのメールの数は、少しずつ増えていった。
 義雄さんからの返信は優しかったので、このまま穏便に時が過ぎ去っていくことをどこかで望み始めていたが、義雄さんは私の望みを、過激さで見事に破壊した。
 朝六時から家のチャイムが鳴るようになったのだ。一回、二回、三回と、諦めて帰る気がないチャイムの押し方だった。私が怯えながら玄関に出ると義雄さんがいて、私が恐れていた言葉をはっきりと喋った。
「早朝ランニングをしないか」
 断るしかない。睡眠が一時間削られるだけでも、午後の仕事に支障が出る想像が働いた。そして、義雄さんを目の前にしても、何の熱意も湧いてこなかった。駅伝に対するやる気はもちろん、義雄さんへの罪滅ぼしのために走る義務的な気力も湧かなかった。若干の気まずさがあるだけだ。言葉を選ばずに言うと、うっとうしかった。私には仕事があった。これ以上赤字の数を増やすわけにはいかなかった。
 しかし、今日を乗り切っても、明日が二十四時間後にはやってくる。義雄さんに諦める気はないようだった。明日を乗り切っても、明々後日がやってくる。私は憂鬱で仕方がなかった。いつの間にか、仕事があるから朝は走れないという理由から、義雄さんと会いたくない、あるいは、走りたくない、という感情にまで発展していた。
 だが同時に、私にある異変が起きていることにも気がついた。不思議なことに、チャイムが鳴る前に、自然と目が覚めるようになっていたのだ。よくよく考えてみると、布団に入る時間も早くなっていた。妻に尋ねてみると、「ご飯を食べる時間と、お風呂に入っている時間が短くなってるわよ、ここ数日間」と。
 生活習慣に微々たる変化が出始めた早朝六時。ランニングを断るために玄関に出ると、義雄さんが、走らなくていいから、散歩しよう、と提案を変えてきた。私は承諾することにした。どうせ断っても、もう一度寝る気にならないと思った。それすらもルーティンの変化であったが、私は気づいていない。
 散歩は、楽しかった。感想を総括すると、「義男さんってこういう人なのか」。私にとってこれまでの義雄さんは謝罪対象であり、会話の全てが子どもたちに関することだった。もちろん、義雄さんの印象が悪かったわけではない(子どもたちが三浦家の車にスプレーで落書きをした時でさえ、激怒せず、それどころか私にねぎらいの言葉をかけてくれた)。だが、今日の天気の話とか、道端の雑草の話とか、私個人の話をすると、義雄さんがいかに相手の話を温和に、かつ情熱的に聞いてくれるかがよくわかった。
 家の周りを一周するだけの短い散歩コースだったが、日中のどんなことよりその時間は充実していた。義雄さんは、毎日隣の家で育てている植物の話をする。植物の種類がどうのこうのという話ではなく、植物の体調をいつも勝手に判断している。今日は元気がよさそうだな、とか、今日はちょっと怒っていないか、とか。そういう話を聞いていると、時間はゆっくりと流れているものだったと思い出すことができた。
 走りの話はほとんどしなかった。今となっては義雄さんの狙いだったのかもしれないが、彼の策にはまっているという不快感はなかった。ただ単純に、会話が楽しかった。思えばここ最近、ここ数十年と言っても差し支えないだろうか、金にまつわる話以外をしただろうか。仕事は言わずもがな、家庭でも……。そう言えば、会話には、目的などなくてもよかった。
 この老人は、私の話を引き出すのが上手く、聞いたくせに、自分が解決しようとはさらさら思っていないのがよかった。自分勝手に持論を展開したかと思えば、何も言わず聞くだけのこともあった。冗談を言って笑うこともあれば、突然自虐を挟み込んでくることもあった。チームにおいて、選手としての最盛期が過ぎたベテランが必要不可欠だと言われる理由はこれじゃないかと思う。
 私は段々と、義雄さんを尊敬する気持ちになっていた。実績でも成績でもなく、朝の散歩から判断して。
 家から仕事場までの道のりを短縮できることに気がついた。家から駅、駅から電車を小走りでいけば。五分くらい節約できる。電車の中でぼーとしているのではなく、メールの確認などをすれば、デスクについてからのタスクを一、二分減らせることも判明した。昼休憩中に、無駄にダラダラとご飯を食べることが多かったが、ささっと食べて、昼寝を少しすれば、午後の仕事効率が圧倒的によくなることも導き出せた。自分は店長だぞ、とほんの少しだけ強気になって、日曜日を自分の休日にあて、水曜日も早番にすることに成功した。そうしたところで、店全体の売り上げが大きく左右されることなど一切なかった。
 パソコンの電源を切って顔を上げると、まだ八時半にもなっていなかった。
 私の心にダメ押しをするかのように、義雄さんが自らの過去と、なぜ駅伝を目指し出したかを語った。散歩し出して一週間後のことだっただろうか。なんとまぁ、自分本位で自分勝手な動機だろうか。私は巻き込まれているだけで、これといったメリットはない。給料が支払われるわけでも無論ない。
 極めつけにはこの言葉だった。
「私のために走ってくれ。なんとか時間を作って、練習にきてくれ、練習してくれ」
 なんという自分勝手な発言だろうか。私の子どもたち以上じゃないか。
 偉そうな言い方だが、凄く気に入った。

川外勇也は二キロ地点を通過した。スタート時、前方に見えていた三人はかなり遠くなっている。仕方がない。川外以外のランナーは、多い少ないはあるものの、何年も走り続けている者たちばかりだ。大学生も一定数いる。二か月の付け焼刃にしては上物の川外勇也だが、追いついて抜かせる程甘くはない。引き離されていく。
逆に、後方から、川外勇也を狙う集団が、じわりじわりと近づいていた。五、六人のグループで、互いに牽制し合いながらも、川外をいずれ抜く、という目的は一致しているようだった。前に抜けそうな人がいると、疲れを感じずにいい走りができるのは、長距離界ではよくあること。こちらの集団も実力者ばかりで、川外が食われるのはほぼ間違いなかった。
川外の走りは悪くなかった。頑張りすぎて失速しそうな走りでもなく、臆病をこじらせて消化不良で終わる走りでもない。練習を信じ、練習で形作られた堅実な走りだと言えた。それこそ、予定通り二十五位で襷を受け取ったならば、二十四位にはなれる走りだった。要するに、川外勇也を取り巻いていたのは、本番のコンディションだけではどうしようもない蓄積の問題だった。
三キロ地点通過。ここから上り坂が五百メートル近づく。義雄らの練習はほとんど平地でのトレーニングだったので、川外勇也は慣れない坂に入ってから明らかに失速した。腰が落ち、上半身と下半身の連動が失われた。表情もかなり悪い。口がだらしなく開いている。その隙に、後方から山の神々が駆け上り、上り坂が終わったあたり、ついに川外勇也を捕えた。川外勇也はあっという間に団子の中に吸い込まれてしまった。

 練習会に参加して、意外と走れるな、と感じたのが正直なところだ。一番走れたのは高校二年生の時だが、その時よりも無駄なく走れている感覚だった。弓子さんの練習内容やアフターケアが素晴らしいのももちろんあるし、社会人になって積もり積もった埃を一気に蹴散らすような爽快感があったからかもしれない。小学生の活発なエネルギーが最初は煩わしかったが、次第に刺激に変わった。高校生のちょっとひねくれた態度を見て、妙な懐かしさと微笑ましさに包まれたのは、私自身が大人になったような気もした。
 順調だったからこそ、十一月十九日の記録会では、絶望を味わった。他の選手との圧倒的実力差に絶望したというよりは、低レベルなのにやけに充実を感じていた自分自身に絶望していた。どんどんと距離を離され、周回遅れにまでされる中で、恐怖が発生した。私の実力で、「戦える」のか。仕事が忙しいという理由にかまけて二十年何もしなかった私が、本番の舞台で、仕事の合間の時間を見つけてコツコツと練習してきた人々に勝つだなんて、不可能以前におこがましい。義雄さんのために走ることを決意した。果たして私が走ることが、義雄さんのためになるのか。
 ちょうど、仕事が忙しい時期だったのもあり、走り終わった衝撃そのまま、私は三浦夫妻にやめることを伝えた。
 弓子さんは、冷徹な決断を目的の為に下せる人物だ。私の話を聞く彼女の表情を見ていると、既に私以外の選手が駅伝を走っているビジョンが浮かんでいるようだった。学生ではないから、やめるといって引き留めてもらえることを願っていたわけではないが、納得と寂しさの混ざり合いが私に渦巻いた。義雄さんが何か言いかけた時には、その感情が絶頂に達して奇行を起こしそうだったので、後ろを向いて立ち去った。
 私は弱いな。思えば、学生時代も、負けるとすぐに意気消沈して投げやりになっていた。いや、負けるどころか、少し調子が悪いだけで、気持ちがあっという間に朽ちていた。たいして速くないくせに、意外とプライドが高い。チームの中でも、エースや準エースには敵わないから、チームの六番手に勝って調子に乗り、六番手に負けて不貞腐れていた。
 仕事はどうだろう。負ける勝つという問題にすら立ち向かわずに逃げていたかもしれない。これまでの仕事で何を成し遂げましたか、と問われたら、答えは一つしか出てこない。年を取りました。目標を設定することもなければ、チャレンジすることもなかった。先輩の仕事をそのまま引き継ぎ、マニュアルブックから半歩も逸れない歩みで仕事をこなした。
 こんなやつが、仕事と走りの両立なんてできるわけがなかった。
 が、またもや三浦義雄が、私の気持ちを焚きつけにきた。義雄さんには本当に、頭が上がらない。
大会翌日の、夜中の二時だった。いくら私が精神的に参っているとはいえ、さすがに寝ている時間だ。家のチャイムが連打され、私が慌てて外に出ると、ベロベロに酔った義雄さんがノートを手に玄関前の柱に寄りかかっていた。私が驚きの声を上げるよりも早く、義雄さんが掴みかかってきた。冗談ではなく、投げ飛ばされるかと思った。
義雄さんは私にノートを握らせた。全然呂律が回っておらず、何か言っていたが、何を言っているかわからなかった。聞くのを諦め、ノートをめくると、崩れた字ではあったが、情熱がこもった字で、仕事をしながらも走り続けている先輩たちのアドバイスがびっしりと詰まっていた。
不意に、義雄さんの声が聞き取れた。
「お前は遅い。だが、お前の葛藤と決断が、私に希望をくれるんだ……わかるか? 子どもがスポーツ選手から夢と希望を貰うように、私はお前の走りから、私が今生きている事実を貰うんだ。わからんだろうな、え? 何も言わないさ。何も言わないから、ただ無言でこのノートを君に渡そう。このノートには、私が成し得なかった経験が全て詰まっている。駅伝をやめたいという気持ちはわかる、よくわかる。でももう一度これを読んで考えてくれ。私からお前を切るつもりはない、例え本番で昨日と同じ走りになってもな。でももう一度これを読んで考えてくれ。お前があと一か月でどれだけ速くなれるか、希望的観測を言っても仕方がない。お前は子供じゃないからな。だが本当に期待しているんだ。人数合わせではなく、戦力として。戦いの戦力、闘いの戦力! もう一度これを読んで考えてくれ。遅いとかはいい。私は、無味乾燥な中年の世界から、這い上って抗い走るお前と一緒に、走りたいんだ! だからな、私には語れる部分が少ないので、昨日会った素晴らしき老年戦士たちの助言をこのノートに……」

 川外勇也は、集団に食い殺されなかった。集団に飲み込まれた後、消化されることなく、集団の中に居続けたのだ。これには、集団を構成していた他のメンバーたちも動揺を隠せない。眼中から払いのけ、二度と戻ってくることはないと思っていた蠅が、羽音をうるさく立てて、眼中の端っこを飛び続ける。極度の戦いの中では、こうした動揺一つが、体の動きに影響してくる。集団は完全にまとまりを失い、六つの塊同士のぶつかり合いになった。
 明らかに最もしんどそうなのは川外勇也だ。しかし、粘り強く泥臭い走り。勝つまで絶対に納得しない小学生が一人混ざっているようだった。残り一キロを切った。緩い下り坂。早くもラストスパートをかけた選手もいたが、早計だ。一キロは意外と長い。一人が脱落し、五人の混戦。肘と肘がぶつかり、お互いがお互いの進行方向を遮った。川外勇也はもがいた。隣の選手と戦っているようにも見えたが、ただ自分の中にある弱さと戦っているだけにも見えた。
 川外勇也が一瞬四人に引き離された。ゴール手前、三百メートル。しかし、首を振って、エネルギーを絞り出すかのように、追いついた。苦しそうだ。倒れてしまいそうだ。それでも走った。加速していた。さながら、川内選手のように。
 団子状態で順位がはっきりとわからないまま中継所になだれ込んだ。一つのチームが転倒。川外勇也はややてこずりながらも、なんとか襷を村神芳樹に渡し、力尽きる。
 観客は白熱の混戦に盛り上がっていた。その立役者の川外勇也に、惜しまぬ拍手を幾重も送った。川外勇也は息をゼエゼエと吐きながらも、笑顔を見せた。拳を握りしめて、渾身のガッツポーズを繰り出した。
 倒れることはなかった。川外勇也の両足は、地面の上に揺るがなくそびえている。視線は前方、充実した未来へ。
スーパーマーケットの店長は、妻と、孫を抱える二人の子供たちの方へ向かって走り出した。


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