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ICカードを落とした

最寄駅から家までは歩いて十分ほどです。

その日は意味もなく残業してしまっため、極めて空虚な気持ちでした。

だから家の目の前に着くまで、使いすぎてやわになったICカードケースから、ICカードがポロリと落ちてしまっていたことに気がつかなかったのです。

駅で改札を抜けることには成功したので、家から駅までの道のどこかにICカードが落ちているのは確実です。

僕は天を仰ぎました。すっかり夜は更けています。

もし仮に、一体どこにICカードが落ちているのか見当もつかない状態だったらまだ諦めがつくでしょう。けれども、徒歩十分圏内にICカードが落ちています。ばかにならない定期代が入っているICカードです。

戻るしかありません。温かさと美味しい食事が待っている家に背を向けなければなりません。

当時の気持ちを端的に表現するとしたなら、Fu○○in' shit! といったところでしょう。オアシスと友人のサイコパスの口癖のせいで、最近はすぐに汚い言葉が脳に浮かんでしまいます。

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僕は後悔しました。いつも同じ後悔です。

ずっと前から、ICカード入れが緩んでいることには気がついていたのです。いつか落としてしまうだろうな、と危惧していましたし、なんなら軽く落としてすぐ気が付く、なんて出来事も既に起こっていました。

新しいのに変えなきゃ、新しいのを買わなきゃ……

落とすまで変えない、買わないんですね、僕という怠惰な人間は。

結局ICカードは駅の目の前に落ちており、事なきを得たのですが、プラスで十分歩かされたわけですし、なにより僕の愚かな部分は、落としてなお、新しいカードケースを買いに行く意欲が湧いていないということです。

あれだけ絶望し、あれだけ苛立ち、あれだけ不安になりながら来た道を戻ったというのに、ICカードが手元に戻ってきてしまったせいで、謎の余裕が生まれたのです。落とす前の自分と全く一緒です。どこかで変えなきゃな……とまだ思っているのです。

どこかで、ではなく、明日にでも買いにいけ!

失って初めて大切さに気付く、なんて言葉があるように、僕もいっそのこと失えばよかったのです。もし失えば、反省して新しいケースを買い、心機一転、絶対に落とさない状態を作り出す覚悟ができたでしょう。なまじっか見つけてしまったがために、どうせまたどこかのタイミングで落とし、二回目の絶望に陥るのはほぼ確定です。あるいは、また希望を見出し、来た道を馬鹿みたいに目を凝らしながら歩き、落としたICカードを見つけ出そうとするかもしれません。なんたる不毛な時間。そんなことをするくらいなら、きっぱり失くして、きっぱり新しいのを買えばいいのです。

現状、ひとまずICカードが戻ってきてよかったという安堵の気持ちですが、未来の自分は、現状の僕を刺し殺したい衝動にかられていることでしょう。未来には悲劇しかありません。


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