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長編小説『老人駅伝』⑥
老人が悪態をつきながらも、人生の終盤に駅伝を選び、若者たちと切磋琢磨していく話。
1話はこちら↓
川外勇也と陣在太花には猛烈なアタックをする気になっていた私だが、いくら打倒内石を掲げていても、もう一人練習にこない高校生女子、高橋望にはグイグイと行けない自分がいた。JKというネームバリューに押されているのだろう。冴えない老人が面識のないJKを校門で待ち伏せしようものなら、変態犯罪者として逮捕はもちろんのこと、各種SNSでさらし者にされて、残り僅かな余生が破滅と恥辱を極めたものになる。
十月九日、日曜日の練習後(その日の練習ペース走で、かなりきつかった)、私は村神芳樹に話しかけた。彼とは既に気軽に話せる関係性になっていた。
「あぁ、高橋さんですか」
村神君は少し肩をすくめた。
「春頃からこなくなったんです。インターハイ予選にもきませんでした……正直仲がいいってわけではなかったんですけど、気さくで喋りやすい人でした。当時は」
「どうして練習にこなくなったのかしら」
妻と梨々香さんも会話に加わってきた。
「多分……怪我だと思います。冬練の時に、肉離れをしました。太ももです」
「あぁー」
私たち三人の声が重なった。
「怪我は治っているはずなんですけどね、春の時点で」
「でもきっと元の状態には戻せなかったってことね」
「多分」
「あるあるですね」
梨々香さんが同情するような顔で頷いた。
「けど、走ってもらわなきゃ」
妻が腕を組みながら、まるで他人事のような軽い口調で言った。なので私は、自分事のように重い口調で言った。
「その通り……村神君、どうすればいい?」
「えぇっ、僕ですか!」
「当り前だろ! 同じ高校なんだから」
「だからって、言ったじゃないですか、そんな仲良くないんですよ。そもそもうちの女子部員ですら説得に行って失敗しているんですから!」
「とりあえず、一度会ってみたいですね」
梨々香さんの呟きが、妙案のように四人の間に広まった。
「でも練習にはきてないんでしょ? 学校には?」
「休みがちです」
「なるべく早く会いたいな」
「あぁ、それなら、最近高橋さんがよく出没する場所は、噂で聞いています。もしかしたら今日もいるかも」
「出没って……ポケモンかよ」
「よし、私が行こう」
と私が言った。彼女は、区間的には一区を走ってもらうことになる。超重要区間だ。彼女がドベで襷を回そうものなら、私が襷を貰った頃には、内石どころか他の選手すらいない単独走になることだって考えられる。そんなのあんまりだ。内石のチームは、内石以外はそこまで速くなさそうなので、一位で襷を繋ぐ必要はないが、普通の走りくらいはして欲しい。高校でないところなら逮捕されるリスクも少ないと判断した私は、覚悟を決めて突撃することにした、今、ここで。
「いやいやいや」
だが、他の三人が私を止めた。
「ん?」
「そんな不良少女のところに、ヨボヨボの醜い高齢男性が説得に行ったって無駄よ!」
「何っ!」
自分で思っているだけならいいが、いざ他人に言われると、無性に腹が立ってくる。なんと面倒くさい人間だ。私は喚き散らしたが、妻の発言に他の二人も何度も頷いた。なんてことだ。高齢男性の地位はなんと低いことか。
「そんな、お前、高齢女性だって何もできやしないだろ」
「心外ね、私はあなたと違うのよ」
「同い年だろうが!」
「人としての魅力がね!」
「私も行きますよ!」
梨々香さんが、勃発しかけた私と妻の戦いを抑え込んだ。梨々香さんが隣にいると想像すると、とてつもない信頼感と安心感が、セコム並みに降りてくる。
「私たちはチームなんですから、助け合わないと」
なんか感動すらもしてきた。涙腺が緩んだ。
村神君も頷いた。
「隣の商店街によく出没するらしいです。当然僕も案内します。行きましょう」
ということで、私たち四人は、高橋望の捕獲に乗り出した。
ちなみに、隼斗は午後から友達とサッカーをしてくると、走って帰っていった。
「元気すぎないか、あいつ」
競技場のすぐ横に商店街があった。私が子供の頃からお世話になっている商店街だ。あの頃に比べれば、そりゃ随分と落ちぶれたものだが、近年廃れる一方の商店街業界にしては、繁茂しているといってもいい。時代に逆らって耐えている古い店や、最近は新しくお洒落なカフェなんかもできて、頑張っている。
ただ、村神君が案内してくれたのは、老舗でもなければカフェでもなく、妙に懐かしい気分にさせる、大音量の玉打店だった。
「パチンコ?」
「はい」
「俺たちの時代のグレ方だぞ、こんなの。まるで――」
「高木(くん)みたいだな(ね)」
私と妻の台詞が重なった。そのまま老人が大好きな長話に突入しそうだったが、若者が止めてくれた。
「さて、いますかね」
老害と化した私には、若い女性がパチンコにいっているという感覚が不思議で仕方がないんだが、そういう時代なのか? 着崩した学ランと、奇抜な髪のいかつい男どもが入り浸るイメージも依然あり、それらが混ざって、一体どんな恐ろしい女性が待ち受けているのかと、私は心底恐ろしくなった。
村神君が騒々しい店内に足を踏み入れてき、数分後、冷や汗をかきながら戻ってきた。
「います」
私は思わず生唾を飲み込んでしまった。
村神君の案内でぞろぞろと店内に入り、台と台の狭間から、昭和の問題児を覗き見た。
一言で言うと、怖かった。とても高校生には見えなかった。それはもちろん金髪のメッシュが入っていたというのもそうだが、長い足を組んでいる姿や、つまらなさそうに頬杖をつく姿が、大学生をも超えて、大人の女性の雰囲気を醸し出していたのだ。細く鋭い目で、台を睨みつけている。
「さぁあなた、行ってきなさいよ」
と妻。
「何で俺が!」
「最初はあなた一人で行くって言っていたじゃない」
「それを止めたのはお前だろ。お前がいけよ」
「義男さん行ってください」
「嫌だよ!」
揉めていると、高橋望がこちらに目線を向けたような気がした。
「ダメだ、逃げよう」
私たちはそそくさと店の外に転がり出た。
「人違いじゃないか?」
「村神君、本当にあの子?」
「間違いないです」
「金髪じゃないか」
「前までは黒でしたよ!」
「彼女が練習にきて走っているというイメージが全く湧かない」
「でも走ってもらわなきゃ!」
「お前が特に考えもせず、あの子でいいです、って決めたからこうなるんだ!」
「他に誰がいたっていうのよ」
私はため息をついて、無駄な口論を避けた。
「俺たちみたいな老人、いや、大人が、練習しようぜって言っても彼女は絶対にうんとは言わない。同級生だって同じだ。言うんだったら、こうなってない」
絶対に乗り越えなければならない壁があるのに、手をかけるのですら躊躇われる程に、壁が異様な圧を放っている。私の情熱やら復讐心やらではどうにもならない次元に高橋望は存在していた。というより、六十五の私にとっては、高校生女子程別次元に存在していると感じる同族はいない。哀しいかな、年齢は私の方が上だとしても、社会的には最早女子高生の方が地位が高い気もする。少なくとも、流行は彼女たちが作り出し、世界を動かしている。だが私たちはもう、政治経済を動かす力はなく、その恩恵にあずかるばかりだ。別次元ではなく、高次元、と表現するのが適切ではないのか。虚しさが、私の行動を鈍らせる。けったいなものだ。
私心と身体のバランスが崩れて空中分解しそうになっていると、梨々香さんがぽつりと呟いた。
「もしかしたら、私なら話を聞いてくれるかもしれない……」
「どうして?」
「なんとなく、近いものを感じるんです。もう一度走りたい気持ちが伝わってきます」
「ホントに?」
「はい」
梨々香さんは確信を持って頷いた。
私はその瞬間、名案を思い出した。
高橋望が不機嫌な表情でパチンコ店から出たタイミングで、村神芳樹が声をかけた。同級生なのに、妙に緊張している村神君の気持ちはわからなくもない。
「やぁ」
声が震えている。「可愛いわね」と妻が私の横で呟いた。私たち三人はもちろん、物陰に隠れて様子をうかがっている。
高橋望は金髪をかきあげた。
「誰だっけ」
「村神だよ。同級生」
「あぁ、陸上部の……」
言いたくない単語を口に出してしまい、高橋望は口をねじった。
「最近は誰も説得にこなくなったから、もう忘れてもらえたと思ったけど」
「駅伝の話をしにきたんだ」
「人数は足りてるでしょ?」
「高校駅伝じゃなくて、頭張駅伝の方」
「……なんか、無理矢理入れられたやつか」
「そうなの? てっきり承諾済みかと」
私と妻は肩を落とした。短平の荒い仕事ぶりが露わになった。
「なんにせよ、君がいないと、走る人がいないんだ」
「いいわよ、別に走るわ。怪我も治ってるし」
「え?」
村神君だけでなく、私たちも声をあげそうになった。
「駅伝は誰か欠けたら出れないからね。走ってはあげるわよ」
雲行きが怪しくなってきた。
「走っては?」
「きっと、チームで集まって練習するからそこに参加してくれって話でしょ? あんたが言いたいのは」
「そ、そうだけど」
「それには出ないってだけ。本番は適当に走ってあげる。ジョグとか? そんな感じでね。ありがたいでしょ?」
私たちは頭を抱えた。村神君は恐怖と怒りで一瞬立ち眩みをしたようだったが、私の指示に従って、スマホを取り出すと、顔写真を出しながら、私たち駅伝メンバーの説明を始めた。
「シニアの枠は、三浦さん夫婦が走るんだ。ほら見て、弓子さんは――」
「は? は? 何? キモ、どうでもいいんですけど」
負けるな、村神。
「義男さんは社会人になってから大会には出ていないんだけど、この前の一キロTTでは三分……」
「ちょ、うざいうざい、やめて、やめろ。メンバーなんて興味ないから。私の話聞いてた? 本番は走るから、放っておいてよ」
村神君はそこから約一分、、必死に粘って図々しい人間を続けたが、高橋望は痺れを切らして早歩きでその場を立ち去ろうとした。
私はそれを見ると、奮闘した村神君と交代し、高橋望と並んで歩いた。
「こんにちは」
「うわぁっ」
てっきり村神君が追いかけてくると思っていた高橋望は、顔面皴だらけの雑魚老人が視界に現れて驚愕した。しかし、村神君が写真を見せたおかげで、変質者の烙印を押されることは免れた。
「怪我はもう大丈夫なのか」
「見てのとおり。だから本番は走る。でも練習は出ない」
「何故」
「面倒くさいからよ」
「練習が?」
「情熱が」
私には不意に斬りかかられた気がした。
「全国大会を目指そう? ベストを目指そう? 毎日勝つ自分をイメージしろ? 全国に出るチームは絶対にこれをやってるから、私たちもこれをやりましょう? ここで逃げ出したら絶対に後悔する? 絶対?」
高橋望は早口でまくし立てた。同時に早歩きの速度も上がっていった。素晴らしい速さだ。
「それで、練習にこなくなったのか?」
「あんた監督?」
「情熱は持たなくていい。とりあえず一緒に練習しよう」
「嫌だ。そんな老人になってまで走るだなんて、情熱だらけじゃない。正直キモイよ」
「でも本番は走ってくれるんだろ?」
「人がいないっていうからね!」
「それって矛盾じゃないか」
「うるさいわよ!」
……私は、彼女に対する恐怖をもう感じていなかった。むしろ、感じた自分を恥じていた。
高橋望はほぼ走っていた。商店街から出る。
私は疲れて、速度を落としていった。だって午前中練習していたんだ。もう限界だ。高橋望との距離が開いていく。私は心の思うままに、恥ずかしながら後ろから一言叫んだ。
「もう一度情熱を得るって選択肢も、きっとある!」
「でしゃばるな、老人!」
……酷くないか?
私を振り切った高橋望だが、彼女の悲劇は終わらない。
高橋望が安堵のため息をつき、速度を落とすか否かの次の瞬間、隣に三浦弓子が走っていた。私が彼女の立場なら、絶叫して失神するかもしれない。
高橋望は驚きの声を上げて、速度を上げた。が、私の妻はそんじょこそいらの老婆とは違う。一緒にジョグをするような形になった。午前中あんなにものハードワークをしたのにも関わらず、あの走り。本当に驚愕する。やっぱり凄いな、私の妻は。
「ちょっと、何よぉ!」
高橋望の声はほぼ奇声だ。
「私のこと知ってる?」
「当り前よ! 見たくない顔!」
「ありがとう!」
「つきまとわないで!」
妻はしつこい。私が一番知っている。
「タバコには手を出してないわけ?」
「うざい! 何でつきまとうのよ! 吸ってない!」
「お酒は?」
「飲むわけないでしょ!」
「パチンコは楽しい?」
「楽しいよ、とてもね!」
「勝てるから?」
「うるさいから!」
「私だから言えるけれど、あなた、そんなんじゃ不良失格よ」
「はぁ?」
「不良ってのは、もっとぐれてないと。女だろうと関係ないわ。髪の毛をちょこっと染めて、パチンコを打ってるだけで、孤高の不良になりきってるのかしら」
「何が言いたいのよ!」
「あなたに不良は向いてない」
「あぁそうですか!」
「えぇ、そうよ。純粋愚直の目をしている」
「何を偉そうに!」
「何より、走りが綺麗。練習すればすぐに元の走りに戻れそう」
「邪魔! 私のプライバシーに入ってこないでよ! 私はもう走りたくないの」
「あら、ごめんなさいね。もう六十五だから、そういう配慮の感覚を失ってるの!」
全国の六十五歳に謝れ。
「言いたいことだけ言うけど、私たちと一緒に駅伝に出ない?」
「だから出るって!」
「練習も一緒にしましょうよ」
「嫌だ。練習に出たら――」
高橋望の息が上がってきた。
「出たら?」
「……」
高橋望は逃げた。
既に妻は後方へと遠ざかっていたが、高橋望は走り続けた。恐らく妻がいないことはわかっていながらも走っていた。
商店街も後方へ、陸上競技場も後方へ、高橋望は随分と走った。天神川という川の河川敷に入っていった。彼女からは、永遠に走り続けて平行線の向こう側に行こうという意思が感じられたものの、やがて、荒れた息が精神に影響を及ぼし、彼女は立ち止まり、荒い息と共に手を膝についた。
苦しそうに息を吐き出しながら、苛立ちの唸り声を上げた。
「練習に出たら――」
「練習に出たら」
自分の声に被せられた、静かな声。高橋望がはっとして顔を上げると、大学のジャージを身に着けた、優しい微笑を浮かべる鈴木梨々香が立っていた。
「どうなる?」
四天王作戦。
たいした作戦ではない。むしろ、我が高校に(今は多分ないと思うが)、伝統的に存在していた悪しき習慣の呼び名だ。
それは、桜の木に緑の予感が漂い始める四月下旬、新一年生を部活に勧誘する時に敢行される。
まだあまり仲良くない友だちとなんとか仲良くならないと、という一種緊張した気持ちで、ぎこちないお喋りをしながら弁当を頬張る、昼放課。
上の階から、巨大で不気味な音をかき鳴らし、二年生がやってくる。
「やぁ、そこの君、いい体しているね、陸上部に入らないかい? 長距離に向いていると思うんだ」
ただでさえ、隣でご飯を食べている人物との関係性がまだ確立していないというのに、ちょっとガタイのいい年上が入ってきたら、ビビり散らかさずにはいられない。うちの高校はラグビー部と陸上部と水泳部がとりわけ意欲的で、やけに体と圧が強そうな奴らばかりが下の階に降りてくる。
私は最初から陸上部に入ることを確固たる意志で決断していたので、陸上部の勧誘に乗り、他の部活からの勧誘には屈しなかったが、どこに入ろうか迷っている人にとっては、この勧誘というものが恐怖そのものだった。
「一回体験入部きてみ。一回きたらはまるから」
「どうしたらきてくれるん?」
「体験だけだよ。めっちゃ楽しい。ほら、これバトン。持ってみや」
「似合うねー」
こういうことをされると、一年生は当然萎縮して、まともに反応できないよな。
「あっ、いや、ちょっ、無理っすよ……あはは……」
こいつ、押せばやってくるぞ、と目をつけられると、翌日か翌々日、各部活は次の手に出る。三年生の登場だ。
「おぉー、高木くん! 今日も会ったね!」
「今日はね、キャプテンにきてもらったから」
「どうも、キャプテンの小崎です。君が噂の高木くんか」
これが四天王作戦の第二段階。今思うと、二年の違いなど、爪を一ミリか二ミリ深く切ってしまった程度の些細なる違いなのだが、当時の三年生は、二年生とはけた違いの威圧感を放ってくる。
「んで、今日はどうなの、放課後。暇なの?」
「いや、まぁ、暇というか」
「他の部活の体験入部の予定は?」
「いや、ない……」
「じゃあ――ねぇ?」
それでも体験入部に顔を出さないと、次の日、キャプテンが顧問の先生を連れてくる。大抵は、その部活で一番恐ろしい形相を所持している先生がやってくる。
「君が、高木くんか」
恐ろしい。断りづらいという感情を通り越し、謎の恥ずかしさが押し寄せる。流石に、教室中もざわつく。「え、先生きたよ……」「ここまでされて入らないのか」「どれだけ期待されてんや」
「うちの陸上部は今、長距離が結構強くてね、去年なんかは、東海大会に三人、出場しているんだ。そいつらが今年は二、三年だからね、やっぱり駅伝。駅伝でいい順位がとれると思うんだ。君が入ってくれれば、駅伝で東海大会も夢じゃないかもしれない」
大抵はこの時点で、体験入部には行く一年生が多い。それでも、本入部、という最後の一押しが出ないことも、まぁ珍しいことではない。ただ、この四天王作戦は、それを打開するための作戦だ。
本入部登録前の最後の昼放課に、二年生がやってくるんだ。
「やあ高木くん」
「こ、こんにちは」
「どう? 本入部してくれる?」
「いや、まぁ、その……」
「まぁまぁ大丈夫よ、こっちも無理強いしているわけじゃないからさ。ちょっと顔出しただけ」
「はぁ」
「それでな、今日はちょっと連れてきたわ」
「だ、誰をですか?」
「ん? マネージャー」
女神の降臨。
「三浦、俺、陸上部入るわ」
四天王作戦、完了だ。