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長編小説『老人駅伝』⑦


老人が悪態をつきながらも、人生の終盤に駅伝を選び、若者たちと切磋琢磨していく話。
1話はこちら↓

 

駅伝は一区から襷を繋いでゴールを目指す。一区の選手がゴールまで突っ走ることはできない。二区をすっ飛ばして一区から三区に襷を渡すことはできない。当たり前だ。私は、生まれてから急に六十五歳になったわけではない。色々なライフステージを経て、六十五歳になった。当たり前だ。ただ何故か、それを忘れてしまう私たち。わかっていても、忘れてしまう絶対条件。私も何度それを忘れてきたかはわからないが、先週はまた、忘れていた。私は考えを改めて、再び川外勇也と陣在太花と向き合った。

「歩くだけで、いいんですか?」
「あぁ、散歩」
 月曜日、私は川外勇也を、ランニングではなく散歩に誘った。すると、渋々ながら川外勇也は頷いた。これも不思議な話ながら、よくわかる話でもあるのだが、「走るのは嫌だが、歩くのは別にいい」人って多いよな。
 なんだかんだで、川外勇也とパーソナルな部分で話すのは初めてに等しかった。いつも話すと言えば馬鹿双子の話だけで、川外勇也の謝罪から始まるのがお決まりだった。なんなら、川外勇也の顔よりも、つむじの方が見覚えがある。
「どんな仕事をしているんだっけ?」
「スーパーの店長です」
「そうだったけか」
「そうですよ」
 別に土日休みではなかったようだ。
「大変か?」
「ええ……そりゃあ、もう」
 川外勇也は苦笑しながら頭を掻く。
「毎回練習に行けずに申し訳ないです」
「それは申し訳なく思った方がいい。が、私が強引に誘ったのも悪いな」
「ですね」
「でも貸し借りでいったら私の方が貸しは多いんだからな」
「ひぃ……すみません」
「元気なのか、二人は?」
 自らあの二人の話題を出してしまうとは、不覚。これまでの人生であわや一番の失態。
「えぇ、相変わらず元気です。二人とも順調に仕事を続けていましてね。でも家が静かなのも事実で、何だか、嬉しいやら、悲しいやら」
「そうか、そうか、俺はせいせいし……いや、うん、悲しいな」
「もう本当に三浦さんたちにはご迷惑をおかけして……」
「それにしても不思議だな、あいつらの姿を見るたびに、川外家は教育を大失敗しているなとか思ってたんだが、今や二人とも立派な社会人だ(お前の話ではな)。子育てに正解はないな……」
 川外勇也を練習に誘う、という目的を持った散歩であることは確かだ。だが、私は自らそれを話題にすることはあまりなかった。作戦という意味合いでもあるが、単純に散歩が楽しかったことも大きい。会話自体もまとまりがなく、テンポも不自然で、隙あらば川外勇也の謝罪が入るし、完成されたものではなない。だがそれが楽しいのだ。道中を楽しめた時に、初めてゴールが見えるよな。長距離も一緒だ。中盤を蔑ろにする選手は結果が出せない。
「最近、老眼らしきものがきまして」
「おぉ、きたかきたか。いいじゃないか、年寄りの入口だな!」
「白髪もかなり」
「いや、それは素直に喜ぶべきだ。禿げるよりはマシ」
 自分を年寄りだと思っている若造と話すことは本当に面白い。それがまだまだ序の口だという衝撃の事実を伝えることができる。
「高校と大学で陸上をやっていたんだって?」
「えぇ。全然陸上推薦とかじゃないですよ。普通の学校の陸上部に所属していただけです」
「タイムは?」
「いやぁ、あまり言いたくないですけどねぇ」
 川外勇也は、横に並んでみてわかったが、身長が高く、足も長い。中年肥満に蝕まれている様子もないし、現役の陸上選手と言われても頷いてしまいそうなラインだ。
「ちょくちょく運動はしているのか?」
「運動というより、走らなければいけない場面がたくさんあるという感じですね」
「それはなんとも、幸いというか、気の毒というか」
 一週間近く一緒に歩いていると、川外勇也の方から会話を持ち出すことが多くなった。
「私もやれるものならスポーツがやりたいですよ。子どもの頃から、体を動かすのは好きでしたから。でも、社会人になって、忙しくなって、子どもができて、もっと忙しくなって。会社と子どもが嫌って言っているわけではないですよ。ただ、忙しいんです。社会人をやりながら走っている人はたくさんいることは、動画などで見て、知っています。でも信じられません。別の世界の住人という気すらしてしまいます。一体どこに時間があるんですか? どこに体力があるんですか? モチベーションは?」
 私は何も言えなかった。私もそうだったからだ。妻が仕事しながら走っている姿を横目で見ながらも、あいつは実業団に入ったという責任があるから走れているんだ、とか、選手だから仕事量は減らしてもらっているんだ、などと卑屈になって、自分の仕事の忙しさの方が上だと変なところで意地を張って、走らないことを正当化していた。今、会社勤めを終えて暇になってから、思い出したかのように走っている。私は恥ずかしかった。
「妻なら答えられるかもしれないな」
 そう言おうとしてやめた。
「今年で四十七です。体はあちこち痛くなっています。なんというか、動きたい気力も年々失われています。私は、そんな中年の私は、どうやって日常とスポーツを掛け持ちすればいいんですか?」
 ……回答はいくらでもあった。目的は、川外勇也を練習にこさせることだ。「早起きをしてみれば? 隙間時間を無駄に使っていないか見直してみれば? 走ること自体に魅力を見いだせばいい、いいから走ってみろよ」などと云云かんぬん、偉そうに言えば、それっぽく聞こえ、川外勇也を二か月間だけ練習に参加させるのは可能な気がした。だが、何故か口が饒舌に動かなかった。目的に対する最適解を行うことができなかった。
「わからん!」
 と私は全てを投げ出すように言った。川外勇也はやや驚いた様子で私を見た。
続いて私は、思い切って語った。私の過去と、内石への気持ちを。
 圧倒的な利己心だ。過去を語って同情を誘う作戦にしか見えなかった。しかし、中途半端に距離を保って当たり障りのないことを言うよりも、いっそ私というどうしようもないクズ人間の後悔とリベンジの意中を語ることが、彼に対しての真摯な勧誘の仕方だと思ったのだ。空っぽな正論は言えない。淀んだ熱意だけを伝えよう。
 そして最後の最後、私の口は自分本位の頂点に君臨する言葉を放った。
「私のために走ってくれ。なんとか時間を作って、練習にきてくれ、練習してくれ」
 単刀直入。だが、これが唯一の最適解だ。

 一方、陣在太花の勧誘方法は、もう本当に馬鹿馬鹿しくて、我ながら頭がおかしいと思う方角に発展していった。恐らく、読むのも恥ずかしいだろうな。だが、これまた私の中での最適解なのだから、これ以外に方法はなかったと思うんだ。だからまぁ、我慢して読んでくれ、ははは。
 私はホームセンターで大きくて白い布を買った。マーカーペンも買った。家庭菜園とかで使う竿も買った。
 妻は呆れ果てて全然手伝ってくれないので、学校帰りの隼斗に手伝わせた。なんかいろいろ文句を言ってくるが、それでもやってきてくれる隼斗。もしかしたら隼斗はいい奴なのかもしれない。ご褒美に飴玉をあげてやった。
「おい! 小学生じゃねぇんだぞ!」
「小学生だろ!」
 んで、何をせっせと作ったのかというと、横断幕だ。先週金曜日に我々が挑戦した、ユニフォーム姿で老人と小学生がグラウンドを無断で走るという、小学校史に残る前代未聞の奇行は、学校全体には轟いたが、肝心の陣在太花には届かなかった。これは陣在太花さん、あなたのためにやっているんですよ、ということを、もっと露骨に表現しなくてはならなかった。彼女はそんじょこそいらの奇行で満足する女ではないとわかった。こちらも恥やプライドなんぞはなぶり捨てて挑まねば、彼女に興味を持ってもらえない。
 白い布に、できるだけ大きな字で「陣在太花」と名前を書く。何度もマーカーをこすりつけ、字を太く太くしていく。書いている最中で、何度も自分がしていることに対して気持ち悪さを感じ、筆が止まりかけた。なにせ、六十近く年が離れた他人の小娘の名前を、横断幕にでかでかと書いているんだ。モラルを破っている感覚や、犯罪に片足を突っ込んでいる罪の意識も出てきて、心中穏やかではなかった。
「字が汚いよ、じじい」
「黙ってお前は布を押さえてろ」
「俺が書いた方が上手いよ」
「そんなわけないだろ」
「やらせてよ」
「ダメだ。お前を犯罪に加担させるわけにはいかん」
「何言ってんの? やらせてよ」
「ダメだと言っているんだ」
「貸して」
「いかん」
「よこせ!」
「うわっ、おい、ちょ、隼斗、やめろ! あっ、あぁ!」
 隼斗のせいで、陣在太花の「太」の文字が、「犬」になった。
 だがともかく、木曜日には横断幕が出来上がり、早速金曜の下校時間に、私たちは黒鳳小学校に突撃した。私が学校の敷地内に入ると、小学生の間からどよめきが起こった。すっかり私はこの小学校の有名人で、一週間ぶりの登場に興奮を隠しきれないようだった。
横断幕を隼斗が必死に振りかざし、その付近で私がランニングを繰り返す。私が疲れたら交代で、陣在太花が振り向くまで続ける。これが私たちの作戦だ。
しかし、いよいよ校長先生の力が及ばない程に、私たちの悪評が拡大していた。先生方や、子どもから話を聞いた保護者たちの不満が募ってきていたのだ。生徒たちのざわめきを浴びながら、私が意気揚々と正装でジョグを始めると、なんだなんだ、四方八方から小学生が発しないであろう汚く攻撃的な野次が飛んでくるではないか。周りを見渡すと、小学生の保護者たちが、いくつものグループを作って固まり、私に向けて罵詈雑言を飛ばしてきた。
「迷惑よ!」「変態!」「変質者!」「子どもたちを怖がらせないで!」「陣在ちゃんが可哀想よ!」「気持ち悪い!」「校長先生に言いますよ!」
 なるほど確かに、今になって考えてみれば、彼女らに的を外れた発言はない。ただ、当時の私はその全てに反抗した。うるせぇ、一人じゃこれないのか、小心者集団め、と心の中で叫び(ちょっとは実際に叫んだかもしれない)、走り続けた。
「ちょっと、無視するの!」
親はより一層雄叫びを上げ、暇があれば騒ぐ小学生たちがドン引きするくらいに、グラウンドは大人たちの野次で騒々しくなっていた。
「隼斗、責任は全て私がとる! 負けるなよ!」
「合点承知、わかってら!」
 隼斗が力いっぱい、「陣在太花」と書かれた横断幕を振り回し、その傍で、肌剥き出しの変態老人が力いっぱい疾走する。
増える野次。男の野太い声も混じり出した。近所の暇そうな老人も、何も把握してないくせに叫び出したのだ。手の付けられない激戦になってから、ようやく先生たちが職員室から重い腰を上げてやってくる。教師ってのはいつもそうだ。
「静かにしてください!」「落ち着いて!」
 彼らが言うのは適切な言葉だ。けれども、場を収められる力はない。騒音を加速させただけだ。私に原因があると思った半数以上の先生らが、隼斗から横断幕をひったくり、私の進行方向に突進してきた。私が思うに、こいつらはモンスターペアレントに恐れをなしているだけだ。私と親たちを見て、私の方が弱そうな見た目だから攻撃対象にした。残りの半数以下が全体の熱を鎮めようとしたが、無駄も無駄。しまいには、小学校のグラウンドにペットボトルやカンのごみが飛んできた。奇声、罵声。
 さすがにこれは盛り上がりすぎではないか、私の心に警鐘が鳴る。確かに大人としては些か疑問がある行動だったかもしれないが、こんな暴動にまで発展する覚えは断じてない。
 小学生があれよあれよと集まり出し、全校生徒が集結したのかもしれない。どこに陣在太花がいるかなんてわかりやしない。隼斗は何がツボにはまったかはわからないが爆笑し出して、何だか私も笑えてきた。私はできうる限り走ったが、若い教師たちに捕まった。
 大いなる恥と罪悪感が私を襲ったが、後悔はしていなかった。

 十月十六日の練習に、陣在太花と川外勇也がやってきた。
 十月十九日の練習に、梨々香の説得の成果が出て、高橋望がやってきた。ようやく全員が揃ったのだ。


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