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長編小説『老人駅伝』⑫
昨日、記録会が終わった後にスマホを開いてみると、老人ランナーの集い、とかいう謎のグループに招待されていた。ラインのグループってのが未だにいまいちよくわからないんだが、とりあえず参加してみたところ、「明日、記録会おつかれ飲み会を開催します」との文言が送られてきた。昨日の今日で、もう飲み会だ。なるほど確かに妻の言葉が聞こえてきそうだ。「老人は暇でいいですね」
ここで一つの懐疑が生まれるだろうな。駅伝本番一か月前に、飲み会などに参加していいのか。そりゃそうだな。当然の疑問だ。結論をいうと、もちろんダメだ。ビールに入ってるアルコールが体に悪影響を与えることくらい、考えなくたってわかるだろうが。揚げ物だって、デザートだって、体に悪すぎる。アルコール、油、砂糖、塩! 胃が壊れる。肝臓がやられる。眠くなる、体が重くなる。当たり前だのクラッカーさ。
ただし、私は行くことに決めた。というのもだ、毎日厳しい練習ばかりでは、体は大丈夫でも心がくじけることは容易にある。せっかく走れる状態でも、メンタルが弱って走れませんでは意味がない。だから心を休めるために、ちょっとした飲み会というのは大事なのだ。会話でリラックスし、程よいお酒でほろ酔い気分になり、そして翌日の鋭気を養う。非常に、大事なことだ。そうだろ? 学校の授業に休み時間があるのだって同じ理由だ。ずっと続けて授業じゃ、心が持たない。だから休み時間に心を休ませて、いい状態で次の授業に続くわけだ。大事だ。アルコールを体に入れることはいい刺激を生み出す。
だからこそ私は……だからこそ私……はぁ……ええい、もういい! 私はビールが飲みたいんだ! 大好きなんだ! それをなんだ、大会があるから禁止にしろってあの妻はまったくもう此畜生が。アルコール禁止なんて、無理がある。そして今から、読者全員が私を嫌うだろう発言をするぞ。梨々香のこととか、川外勇也のこととかを一旦置いておいてでも、私はビールが飲みたかったんだ! だからすぐに行きますと返事してしまったんだ。そうだ、言っちまったぞ。美味い美味いビールを飲んで、妻が真剣に問題に向き合う中、現実逃避をしたかったんだ! クソ野郎だろ、私は! ただあの黄金色の液体を体に流し込みたい。泡を上唇に触れさせながら、ゴクゴクと音を鳴らせて苦味のあるあの液体を体内へと取り込みたいのだ。揚げ物と一緒に、ビール、いいねぇ!
大会前に飲み会はやめた方がいいだって? うん、そうだよ。
……失礼。そういうわけで、私は昨日会ったメンバーが中心の飲み会へと参加した。
場所は駅前の居酒屋で、私が来た時には、ほぼ皆揃っていた。ジャージを着ている時に比べ、やはり私服だと冴えない老人の雰囲気が強かったが、それでも、会場は野心と若さが広がっていた。落ち目の朽ちた雰囲気が好きじゃないから、私は普段同窓会にも行かないんだ。なかなか若さを同年代から得られるってのは難しいんだよ。
「それではみなさん、記録会を無事に切り抜けたということで、乾杯!」
「乾杯!」
ジョッキとジョッキがぶつかり合う、いい音。そのままジョッキを机に置くことなく、喉の中へ……。驚いた。美味しすぎる! 冷たさとちょうどいい苦さが、全身を覚醒させる、そんな感じだ。
「うんんんんまい!」
うとまの間にんを入れずにはいられない。私だけでなく、皆が皆その反応で、うまさのあまり声が出ない至福の静寂が会場を覆った。
料理が続々と出てきた。唐揚げ、串カツ、天ぷら、フライドポテトに鉄板焼き。衣を歯で割ること自体が久々で、サクッという音が出ただけで美味しかった。とりわけ、軟骨の唐揚げが美味しすぎた。コリコリとした食感に、いい塩加減。ビールと交互に飲めば、楽園に寝そべったも同じだ。私は、ビールと揚げ物が大好きだ。再認識した。
しかし、それにしても美味しすぎた。こんなにもビールが美味しいと思ったのは、私の人生で初めてだった。それは単に数か月禁酒生活を強いられていたからではないだろうな。
アルコールが入ると、自分史語りに花が咲く。二十歳なりたての人生経験皆無の大学生ですら、お酒が入れば自分の自慢に夢中になるのだから、年をとったらなおさらだ。どうしようもない。
「四十でマラソン始めたんだけどね、一回目のマラソンでサブ3達成したのよ!」
「凄い!」
「一回目で!」
それは本当に凄い。
「聞いてくれ、俺はな、箱根に四年連続で出たんだぞ!」
「おぉ」
「万年補欠でだろ」
笑い声。私も笑ったが、それでも羨ましい。箱根の舞台を走る自分を想像したことがないと言えば、嘘になる。まぁ、関東の強豪校に行くだけの金と走力はなかったのだが。
面白かったのは、スーパースターがほとんどいなかったことだ。六十代とか、七十代でここまで走れるレジェンドたちだ。さぞかし学生時代に輝いたのだろうと劣等感を持っていたが、話を聞いていくと、必ずしもそうではないことが次々と判明した。それこそ、四十から走り始めた彼女は、それまで陸上経験は一切なし。学生時代は美術部で、体力づくりくらいの軽い気持ちで走り始めたらしい。冗談っぽく言って笑い話にしている彼も、四年間毎年補欠は、相当悔しかったんじゃないかと思う。補欠に入れたということは、四年間選手を目指して努力し続けたということだ。冷酷な言い方をしてしまえば、その努力が実らなかった。
「いやぁ、学生時代はいつも持久走ドベでしたよ」
「いいところまで行ったんですけど、大怪我をしちゃいましてね」
「私は、単純にメンタル的に、走りたくなくなって一旦やめたかなぁ」
挫折を味わっていたり、走りとは無縁の人だったり。そんな彼らが、仕事をしながら走る道を選んだ。今は年齢的に暇そうな奴らもいるが、きっと今の姿からは想像もできない厳しいスケジュールを生きていたに違いない。なぜ、仕事をしながら走る道を選んだ? どうやって、仕事をしながら走れる?
私の心の叫びが、声になって出ていたらしい。酔っていると、心の中にとどめている言葉が出てしまうのが私の酔い方だからな、しょうがない。
「そんなもん……」
「惰性だろ」
「楽しいから」
「大会は楽しいよな」
「きついのが楽しい性癖」
「習慣かな」
「中年太りにはならんぞっていう覚悟」
「健康のためでしょ」
「長生きできるらしい」
「早死にするって聞いたけど」
私は大慌てでスマホの録音機能を呼び起こした。スマホにこんな機能があることなど知らないはずだったが、絶対に彼らの言葉を漏らしたくないという強い意志が、無意識を加速させたらしい。
「どうやって?」
「普通に、仕事終わったら走るだけだろ」
「これも習慣って感じ」
ストイックだ。これにどれだけ憧れることか。こいつら、かっこつけているだけだな。私にはわかるぞ。人間そんなできた生物ではない。仕事に疲れて家に帰ったら、ソファに沈んで暴飲暴食と電子機器三昧だろ。
「目標を立てたわよ。そりゃ。何か月後のマラソンでサブ4達成とか。わざわざ書初めをしたりもしてね」
「学生みたいね」
「恥ずかしい。五十代でそんな」
いや、恥ずかしくない。いや、恥ずかしいは恥ずかしいだろうけれど、恥ずかしいだけだ。それ以上はない。そもそも学生みたいで何が悪いのだろうか。私たちは、年を言い訳にして、何から逃げている?
「一緒に練習できる相手がいるってのは大きいかもしれないな」
「確かに、普通に相談もできたし、お互いに忙しいのはわかっているし、それでもってそいつに負けると悔しいし」
「探してみると、練習会も結構開催されていてね」
本当に、探すと意外にも、結構な人数で活動している長距離団体がある。問題は、探さないと見つからない、というところか。
「やっぱり楽しいから、続けられましたよ。ゲームとか、漫画と一緒」
「それは中々イカれてますよ! 鉄平さん!」
「そうか?」
「だってやっぱりキツイじゃないですか、長距離って。苦しい、痛い、寒い熱い」
「それがいいんじゃないか」
「ひぇええ。恍惚とした表情浮かべないで下さいよ!」
「じゃあ君はどうして続けてるんだ」
「それは、その、別に……ううん、僕も、走るの楽しいのかも」
「ほらみろ!」
私たちは笑った。ただ走っているだけ。何が楽しいのか。陸上を少しでもやっていた人なら、そういう質問を受けたことがあるのではないだろうか。ただ走っているだけ、というのは事実だ。苦しいのも事実。だから、「別に楽しくない」と言ったら、「じゃあ何で走ってるんだ」と言われる。「楽しい」と言ったら、「キモ。走ってるだけじゃん」と言われる。走ってない人には絶対に走ることの楽しさはわからないが、走っているからと言って楽しさがわかっているわけではない。私だって、鉄平さんみたいに「楽しい!」と胸を張っては言えない。でも、たまに、こういう飲み会とかで、思ってしまうんだよなぁ。「明日も走ろうかな」と。
「朝走るのがいい派と、夜走るのがいい派。どちらに属しているか知ることは大切だと思うけど」
「うん、朝走ったおかげで仕事に身が入る人もいるし、朝走ったせいで疲れ果てて仕事に支障がでる人もいる。私は後者。だから夜に走る」
「夏は夜、冬は朝かな」
「冬起きるの大変じゃん」
「確かにねぇ」
「でも、この年になるとそんなに」
「あぁ~」
そういえば、学生の頃は朝練の何が苦しかったって。起きることだったな……。
「休むことをマイナスに捉え過ぎないようにはしてた。長距離やる人って、結構真面目な人が多いからさ、走れなかったことをすごい悔んだりするじゃない? 私もそうだったんだけど、それをやめた。走れたら褒めて、走れなくても、仕事を頑張ったことを褒めたり、なんなら、休めたことを褒める」
「それ大事だと思う。先生なんていないんだから、自分勝手に走ればいいんだよ。気楽にね」
「代わりにできる筋トレをやるとか。足りないところを、短い時間で効率的にやる。俺たちが、社会に出て求められていることとリンクする部分もある」
「マッサージの時間を作った方がいい」
「やっぱり食事でしょ、こんな揚げ物ダメ、絶対」
「たまにはいいんだよ、たまには」
「リラックスね」
「ノートをとればいい」
「運動してなくて、酷い体型に成り下がった同僚を見るのさ。そうすると、おのずとやる気は出てくる」
酒は進み、頭がぼーっとしてきた。頭が熱くなってきた。この年になってまで、吐くなんて無様な若者のような様相を呈することはないが、これだけ飲み食いして気持ち悪さ一つないのは異常ともいえた。もしかしたら、そんなに飲み食いしていないのかもしれない。互いにけん制しあっていたり。何故なら、私たちは明日も走るからだ。死ぬまで、走るからだ。走れなくなるまで走るつもりだから、走れなくならないように生きるのだ。なんてね。一平さんは酔いつぶれて寝た。もう一人か二人は、夜風に当たると言ってフラフラと消えたまま帰ってこない。私はというと、時間の感覚がやけに早く感じた。十五分が瞬きしただけで過ぎ去った。これは誇張でも何でもない。
悪くない、と悪いことをしながら思う。大会一か月前に飲み会だなんて、内定が一つも貰えていないのに髪を金髪にするようなものだ。こんな大人になるなよ。けれど、もしこんな大人になったら、楽しめよ。
「えっ、三浦って、弓子さんの旦那さん?」
おっと、まずい流れになってきたぞ。
「弓子さんって?」
「知らないの?」
「俺たちの代で陸上やってて知らんやつはいなかったよ」
「何せ、こんな田舎から実業団だもんな」
「ちょっと待って、義男さん。あなたは弓子さんの配偶者ですか。イエス オア ノー」
「……イエス」
大盛り上がり。嬉しい反面、サインやら写真やらを求められることにうんざりしつつ、羨ましい。羨ましくなるからこの話題は避けたかったのだ。六十過ぎてもまだこんな風になるのか。いつまでアイドルなんだ、私の妻は。
「でも、もう一人いるよな、この辺りから実業団になった選手」
「そうね」
「そっちは知らないわけないよね」
はぁ。
「内石選手!」
大盛り上がり。私以外。
「そういえば、三浦さんは、数か月前から走り始めたんですよね?」
「凄いよな、それでこんな速いなんて」
「奥様の練習のおかげじゃないですか?」
「ま、まぁ……」
「どうして走り始めたんですか?」
なぁんで、今このタイミングでそれを言うのだ。今言われたら、嘘をつけないではないか。気分は高揚しているし、つい先ほど名前まで出た。心の奥底から出てくる闘志を誤魔化せない。恥ずかしさ? そんなものいらんとさっき自分で言っただろ。それにきっとこの人たちならわかってくれる。ここで宣言してやる。中途半端な私の気持ちを一心するいい機会だ。これが、飲み会の役目だろ。
「実は、内石を倒すために」
飲み会が終わった後、私はコンビニに行ってノートとペンを買った。家に帰ったらすぐに寝てしまいそうだったので、阻止するために公園のベンチに座ってノートを開く。スマホで録音した会話を聞き、それをどんどんとメモしていく。仕事をしながら走る、という無理難題をこなし続けた猛者たちの言葉だ。きっと、川外勇也の助けになると思った。私なんか役に立てない。そう思うことはやめ、無理矢理にでも役に立ちにいくことにした。
正直あまり記憶はない。何を書いたかも、あんまり覚えていない。汚い字ではあった。時刻も覚えていないが、かなり遅かったと思う。十一時くらいだった気がする。私は無礼を承知で、川外家のチャイムを鳴らした。出てきた川外勇也に、私はノートを渡した。溢れ出そうな言葉は無数にあったが、心にとどめておくことにした。今は言葉を口に出さない方が、よく物事が伝わる時だ。すまんが、川外勇也の表情とか態度も一切覚えていない。
私は、川外勇也と一緒に駅伝を走りたかった。不思議なことに、川外勇也にこだわりがあった。改めて考えてみても、摩訶不思議なこだわりだ。私にできなかったことをやってほしいという、無責任な期待の押し付けのような気もしなくもない。