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小説感想『羊たちの沈黙』

人間の奥底

しばしば小説というのは、人間の中身を様々な方法で表現します。僕も小説を書いていく中で、登場人物にどう奥行きを見せるか、あるいは、主人公にどう発言させるかなど、表現方法を模索しています。そんな中、今作を読んで驚きました。レクター博士とバッファロウビルという二大犯罪者のことを、まるで理解できないのに、どこか理解できる気持ちになるという矛盾を抱いたからです。僕は作品を読んで、こういう表現方法があったんだ、と新鮮に感じました。

何が新鮮だったのでしょうか。

学問的

それはどこか学問的でした。
レクター博士とバッファロウ・ビルも、二人とも社会的には精神異常者のレッテルを貼られています。なので、彼らはどういう異常者なのかというのを、様々な人が”健常者の立場として”自論を持っています。警察も、FBIも、医者も。彼らが二人のことをどこかわかりきっているような口調で、上から目線で、手の付けられない子どもについて誰かに説明するように語るのです。実際は子どもの気持ちなどわかっていないのに。ここで怖いのが、彼らの意見を客観的に読んでいるうちにで、レクター博士やバッファロウビルに寄り添っている自分が生まれていることです。つまり、教科書で読んでいただけの人物が、知らない間に横に立っているような表現が秀逸だったということです。

答えがあるような

それはどこか答えがあるようでした。人々は精神異常者と見なされる彼らをわかった気でいるのは先述の通りなので、彼らは異常者だからよくわからない、という結論ありきで動いています。おかしな話ですよね。わかっているつもりになっているのに、彼らがわかっているのは、わかっていないということだけです。ともかく、レクター博士やバッファロウビルの考え方や思想などを考えるのを放棄して、とにかく犯人を逮捕するぞ、レクター博士から情報を聞き出すぞとしかFBI側は考えないので、尽く失敗を続けます。終始レクター博士に振り回されて、バッファロウビルは全くもって捕まりません。捕まえるぞという答えを追い続け、レクター博士はこう考えていると決めてかかった結果、失敗続き。その過程を見ていてわかったことは、レクター博士らはわからないのではなく、わからない程に奥が深いということです。実は答えなどないのです。考えは変化し続け、動き続けます。というのをFBIの失敗でわかっていくのが面白いんですよね。

クラリス・スターリング

クラリスが唯一寄り添った考え方をしている人物です。ここでようやく主人公の登場です。異常者だと決めてかかる人々の中で、彼女だけが被害者にも加害者にも寄り添って物事を考えます。もちろんそこには大きなリスクがあります。被害者に寄り添うあまり我を忘れたり、犯罪者に近づくあまり正常さを失う可能性があるからです。ですが屈曲で粘り強いクラリスは、寄り添いながらも自我を保ちます。さすが主人公。クラリスの言動が最もありきたりな人物描写へのアプロ―チです。主人公の目線から誰かを見つめるのはとても書きやすいですから。ある意味では、この真っ当な視点があるからこそ、他の視点が新鮮に僕の目に映り輝いたのです。

まとめ

学問的かつ、答えがなく、近づけたような気になる、犯罪者。魅力的にならないわけがないですよね。逆に、ただただ残酷なことをする、という有象無象のキャラたちが、どうしてレクター博士に魅力として敵わないか、というのもなんだかわかってきた気がします。

言い忘れいてましたが、レクターやバッファロウ視点があまりないのもいいんですよね。全くないとそれはそれで理解ができませんが、作中で突然犯罪者側の視点になるので少し彼らを理解できたような気にさせておいて、でも全ては決して教えないという姑息な表現が、好物でした。

この小説を読んで、魅力ある悪役を作りたくなってきました。


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