想像力の難しさ
富士山登山中に滑落して亡くなった人がダーウィン賞を受賞したそうだ。ダーウィン賞とは愚かな死に方をした人や馬鹿なやり方で去勢した人をノミネートするものらしい。
この人はおよそ登山に適するとは言えない装備で登山を行い、それを生配信していたのだが、その途中で滑落し亡くなった。
ここだけで見ると間抜けな奴だと面白く思ってしまうかもしれない。Wikipediaでダーウィン賞のページを見てみると、大勢の間抜けな死に方をした人々の情報が載っている。思わずふふっと笑ってしまう人もいるだろう。私は笑ってしまった。
それを面白いと思えるのは、それを面白い文章としてしか認識していないからだ。愉快な記号程度に感じている。だから笑える。しかしその人がどんな人だったのか、どんな人生があったのかを知ると、そこでようやくその人に対する認識は記号から人間に変わる。亡くなった人の背景については記事のURLを貼るのでそこで確認してほしい。
https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/4365/index.html
私は日本人であり、同じ日本人の彼がどのような境遇だったかを死のニュースと共に知ったため笑いはしなかったが、Wikipediaに載っている情報については笑ってしまった。ここに想像力の難しさを感じる。
私が彼を笑わなかったのは同じ日本人であり、かつ最近の人であるからというのも大きかったと思う。物理的にも時間的にも、文化的にも距離が近い。対してWikipediaの人たちについてはほぼすべてにおいて距離が遠い。つまり想像力が及びにくい。
彼ら彼女らがどんな人でどんな人生を歩んできたのかを想像しようとさえもしない。まともな教育を受ける機会がなかったのかもしれない、不運な事故や事件で人生に取り返しのつかない失敗が起きた後なのかもしれない、そういったことを考えられない。
別にそれが間違いだとは言いたくない。いちいちそんなことを考えていたら脳味噌がパンクしてしまう。不謹慎を笑うのも人間の一つの機能かもしれない。ただ、正しさとは、想像力とは難しいなと思うんです。
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