安楽死欲求と当たり判定の大きさ。
昔から思い続けていたけれど、就活を前にしてより一層安楽死したいという欲求が強くなっている。より正確に言うなら、昔というのは中学生くらいのときで、そのときは安楽死という具体的な考えではなく、18歳になって1年以内に不慮の何かで楽に死んだらいいなというものだった。その願いは叶わずに、今は21歳になっている。
別に私個人の人生に過酷な体験があったわけではない。虐められたことはないし、家庭崩壊していた訳でもない。ただニュースも学校も、社会人からの人生が良いものだと教えてくれることがなかっただけだ。
東日本大震災もそうだが、そんな自然の脅威より、人災が生きる気力を削いだ。バブル崩壊、就職氷河期にロスジェネ、少子高齢化、ブラック企業。SNSを始める前からこんな暗い情報をTVのニュースから受け取り続けた。
SNSで知ってしまった情報はより具体的で暗黒と言えるものだった。弱者が強者に踊らされ、日本人が日本人を切り捨てる。リベラリズムが共同体意識を破壊し、大きな物語や使命を虚無にする。醜い弱者など存在しないかのように視界外へ追いやり、気持ち良くなれる相手にだけ手を差し伸べる人間の冷酷さが辛かった。
私が安楽死に吸い込まれ引き摺られるのは、自身の無能さへの絶望と社会の冷酷さに対する失望に他ならない。自分が駄目でも社会に希望があり、身を委ねられる物語や使命があるなら耐えられる。社会が駄目でも自分に望みがあるなら生きられる。でもどちらもないなら?生きる理由がなくなる。
何度でも書くが、私は私に人間らしさを備えさせなかった教育が許せない。優しさや配慮など本来必要ない要素だ。明らかに若い世代より民度の低い上の世代やヤンキーが人間をやれているのだから間違いない。狭い世界で上手くやること、他人を傷つけることや失敗することを恐れない無責任さこそが人間に必要なのだ。恋愛はその最たるものだ。
どうにかしてこの沼から出なければならない。視野の狭さと無責任さと欲望を手に入れなければならない。まともな人間とはそういうものだ。この義務感すら失くしたとき、きっと溺れてしまうんだろう。