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習慣への執着の是非と、「普通」の感覚

今日は月に一度のビジネスコーチとのコーチングセッションの日、足元と未来を改まって冷静に見直す時間を持ちました。かれこれ20年近く続いているコーチとのセッションは普段頭の中でぼんやりと考えていることを言葉に出してアウトプットすることで自分の考えをまとめる絶好の機会です。今日は、先日いよいよ具体的なアクションに取り掛かった事業承継の66ヶ月カウントダウンについての話題を中心に、目先で気になっている、緊急性の高いタスクと66ヶ月後以降の未来の私のセカンドキャリアについての話題を中心に世界の大きな変化と人々の意識の変容など、幅広く示唆に富んだセッションになりました。その中で改めて「普通の感覚」を持つことの大切さに気づきがあったので書き留めておきたいと思います。

非常識な事業承継

このnoteのマガジンでもシリーズで書き続けておりますが、私は現在、代表を務めている会社の絶賛、継活(事業承継の取り組み)中で、しかも、次の代表者を指名して禅譲するでもなく、血縁者に会社を残すでもなく、スタッフの中から複数人のリーダーによる組織に引き継ごうとしています。一般的には、と言うよりも私自身も今まで聞いたことがない事業承継のやり方ですが、実際に完全に事業を引き継ぐまでに66ヶ月と言う期限を切って取り組みをスタートしてみたら意外と違和感がなく、組織と、それを構成するリーダーたちが5年と半年の間にそれなりに成熟すれば、思いのほかうまく着地するのではないかと感じています。コーチに言わせると「三角形のヒエラルキー型組織ではなく丸い組織を作るのですね」と、すんなりと理解を示してもらいましたが、私たちがスタートさせた事業承継のプランを話すと目を丸くして驚かれる方が少なくありません。非常識だと感じられるようですが、私にとっては意外と普通な感覚で計画を思いついた(というより自然にそうなった)時も別に違和感はありませんでした。

普通を作るのは習慣

普通の感覚と言うのは、人それぞれであり、考え方や情報量、信念や信条、持っている世界観や所属しているコミュニティーなどによって大きく違いが出るものです。よくある意見の食い違いで、「普通はこうやろ」と言う主張をされる方が散見されますが、言われている本人にとってはちんぷんかんぷんで、さっぱり言ってる意味がわからないと言う場面を見かけます。「普通」と言う概念はいつもすぐそばにあり、しょっちゅう使う誰にでも簡単にわかりそうな言葉である割には、意外と奥が深いというか、定義付けが難しい部類に入るのではないかと思っています。ちなみに、一応いつものように国語辞典で引いてみると以下の通り、

ふ‐つう【普通】
〘名〙
① (形動) ごくありふれていること。通常であること。また、そのさま。一般。なみ。
② (━する) 広く一般に通じること、または通じさせること。また、ある範囲内の物事すべてに共通し、例外のないさま。
出典 精選版 日本国語大辞典

辞書に定義されているように、通常である、ある範囲内に共通し、例外のないさまとは、完全にそれぞれの人の営みに由来するものであり、世界共通の普通など存在しないことが簡単にわかります。そして、日々の積み重ねこそがその人にとっての「普通」を作りあげると考えれば、良くも悪くも習慣がそれを作り出すと言っても過言ではありません。

今こそ普通の感覚を大事にすべき

今日のコーチとのセッションの中でも、世界の価値観がひっくり返り、何が本当かわからない時代にこそ「普通の感覚」を持つことの大事さを改めて感じさせられました。風邪の一種であるはずのコロナの感染者数の爆発による緊急事態宣言がまさか暖かくなった5月にピークを迎えていることへの違和感を初め、中国よりも多くの農薬を使っている日本の農業や、欧米諸国に比べて10倍以上も食品添加物の認可数が多い日本の食の安全など、普通の感覚と目に見える現象としての現実の乖離の大きさには何を信じていいのか分からなくなります。ただ、明らかなのは大手も個人も含めてあらゆるメディアが伝えているのはニュース性を高めるために誇張した情報であり、現実世界の全てでは無い事です。数字の切り取り方によって現実は大きく変わって見えるものであり、エビデンスとして示される根拠自体、間違っているとは言い切れないにしても、穿った見方をされていることが少なからずあります。ここで大事になってくるのが普通の感覚だと思うのです。

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長い時間に熟成される普通の感覚

普通の感覚とは、綿々と継続される人の営みの中から生まれてくるものであり、長年の習慣や経験則の積み重ねから中央値を割り出す人それぞれのバランス感覚といってもいいと思います。私が取り組んでいる非常識と言われる事業承継の話に戻せば、私は20年かけて社員との対話や研修等のコミュニケーションを積み重ね、社員大工達に言われたことをそのまま行う単なる作業員ではなく、主体性を持って現場責任者として現場で付加価値を生み出す、圧倒的な顧客満足を勝ち取る現場のスペシャリストになってもらいたいとの想いで向き合ってきました。現在、一般社団法人職人起業塾で行っている研修事業の元になっている社内研修のスタートのきっかけは社員の独立支援であり、その延長で独立願望がない者にも経営者感覚を持って、いつ独立しても立派にやっていけるくらいのスキルを身につけた上で社内で活躍してもらいたいと言い続けて来ました。現在、勤続10年〜20年のメンバーが過半数を占めるよになり、昨年の20周年記念の式典では株式の30%を6名の社員に分割しました。そんな私にとっては、誰か一人に経営権を渡して運営を任せる方がどちらかというと難しく感じますし、違和感もあります。普通の感覚で、経営感覚を持った複数のメンバーで話し合い、補完し合いながら組織を運営してもらう方が良いと思うし、そのようなメンバーに事業を継承したいと思います。

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執着は人生を豊かにするか?

突発的な事象への対処を繰り返していたところで、普通の感覚は生み出されるのではない。目的や目標が明確にあるなしにかかわらず、長い時間をかける中で徐々にアベレージが見えるようになり、自分なりの「普通」が見えてくるとすると、テーマを持って習慣を継続することで得る知見や経験則こそが信じるに値するフツーの感覚、判断の拠り所になる自分なりの価値観やパラダイムを作り出すことに繋がるのではないかと思うのです。私は若い時にロクに学校に通っておらず、勉強しなかった過去を取り返すには、大したことでなくても、コツコツと積み重ねる習慣で少しずつ、しかし確実に成長するしかなく、その習慣こそが成果を生み出す状態を整える事に繋がるとの原則論を信奉し、これまで数多くの習慣に取り組んできました。書道や茶道のお稽古事も10年以上、毎月主宰している勉強会はもうすぐ8年、この毎日ログを残す習慣は2007年からほぼ毎日(数年前から日祭日は休み)続けており、彼これ14年になろうとしています。習慣に執着する事によって膨大な時間を費やしてきた事に対する後悔はありませんが、一度やると決めたらやめられない強い執着心が本当に人生を豊かにするかは疑問に思い続けてきました。しかし、今になり、自分の中に良いも悪いもなく確固たるふつーの感覚が熟成されていることを感じており、これまでの長い年月も無駄では無かったと今更ながら思います。

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建築業界で働く一人ひとりが才能を発揮、開花させる研修事業


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