人は出来なかった不甲斐ない自分を忘れたい 〜世阿弥の戒め〜
弱き者に優しくない世の中になっていると感じています。加速度的に。
イスラエルのガザ地区への容赦ない攻撃の報道を目にする度に、これが21世紀の人間の所業なのか、人間の暴力性は人類の進化や発展と関係なく本性として発現され続けるのか?とちょっとした絶望感を抱いてしまいます。
しかし、やっぱり私は人は生まれた時から良知を持っているとの儒学の四書に繰り返し書かれている性善説を信じたいし、文明は成熟に進んでいるし、人類は明確な意図を持って自由、平等、平和といった誰もが幸せを感じられる世界へと推し進めるべきだと強く思っています。
惻隠の情とは潜在的な優しさ
人の本性は残酷で暴力的だとしても、孟子が惻隠の情として示した様に、古井戸に落ちかけている子供を見かければ、どんな悪党でもなにも考えずに子供に手を差し伸べる。心の奥底には損得や好き嫌いだけではなく善いか悪いかで判断しようとする魂が存在すると思っています。そしてそれが子供の危険を目の当たりにするときばかりではなく、平素から自然に身について、態度や行動、姿勢や在り方に映し出された状態こそが、優しさとか、優しいと呼ばれる人の有り様を指し示すのではないかと私は思っています。
優しさだけを誰もが意識的に損なわない様にすれば、この世から争いは消え去る可能性があります。そして、優しさの本質は相手の立場に立って慮ること、相手の世界に身を浸し、自分を理解してもらう前に、相手を深く理解することだと考えています。その行為こそがコミュニケーションであり、この残酷極まりない世界に存在するあらゆる問題や課題を解決する鍵だと思ってます。
理解してから理解される原則
人が持つ問題、課題の全ては人間関係に由来する。と断じたのは心理学の大家であり、近年、その考え方を教育やコミュニケーションに反映させるべきと各界で大きく取り上げられるようになったアドラー。人の課題と自分の課題を切り分けることによって、課題の本質を炙り出し、解決に正面から向き合えるように思考を整理することを勧めた書籍、「嫌われる勇気」は、数年前に大きな話題になり、老若男女問わず多くの人に読まれました。書店では未だに平積みにされているところもあり売れ続けているようです。
アドラー理論が真理をついているとするならば、人間関係の質を改善する唯一無二のツール、コミュニケーションこそが人類の課題を全て解決し、有史以来、人類が追い求めてきた自由、平等、平和を実現する可能性を秘めている。となります。しかし、その重要性は世界の誰もが理解しているにもかかわらず、残念ながら文明が進化し、モノが溢れ、テクノロジーが発達して豊かになった現代も、理想の世界にたどり着く片鱗さえ感じられません。
人は優しくなれない
人と人との関係性の質が全ての成果の質を担保する。と言ったのは社会や組織のグッドサイクル(成功循環モデル)の概念を示したダニエル・キム氏です。関係の質からスタートして、思考、行動、結果に好循環が生まれるのに必要なのは言うまでも無く、コミュニケーションです。その意味で、アドラー理論と非常に親和性が高いと言えますが、冷静に考えればこの成功の循環は当たり前過ぎるほど当たり前で、わざわざ取り上げるまでも無いようなことです。にも関わらず、このサイクルが特筆され、喧伝されるにも関わらず、おいそれと殆どの組織や社会で機能しないのは、人間の中に染み付いた、おいそれとは変え難い習性や習慣が立ちはだかっているとしか考えられません。それは、人は誰しも良知を持っているにもかかわらず、(子供が古井戸に落ちかけるような出来事に遭遇しないと、)それを行動や態度に表して優しくする事が難しい。との事実です。
人が優しくなれない理由
誰もが必ず優しい心を持っている。しかし、なかなか優しくなれない。この課題こそが人類、社会、そしてあらゆる組織の成熟を止めてしまっている根本的な原因ではないかと思います。なぜか?その原因は人によって多岐に渡っており、また複雑に絡み合い、非常に複雑で一概に片付けることはできませんが、私が考える多くの人に当てはまる主たる要因ではないかと思う項目を以下に挙げてみます。
個人主義、利己主義が思考のベースとしてスタンダードになっている
本質的なコミュニケーションやその効果、必要性について深く考える機会を持たない
そもそも人はコミュニケーションを好まない
出来なかった頃の自分を忘れてしまい、出来ない人を責める
他人の不幸は蜜の味と言われるように、前向きなコミュニケーションよりも、後ろ向きなそれを好む
人の痛みや苦しみは本人しかわからない。
あくまで私見ですが、本来、優しいはずの人が優しくなれない理由はこんなところではないかと思います。
黒歴史はなかったことに
上述した人が優しさを発揮できない理由の中でも、私が最近、強く感じるのは、人は自分の失敗や辛かった経験を忘れてしまう無意識が強く働くことで人を受け入れにくくなっているのではないか。と言うことです。相手の立場に立って相手の心を慮るには、相手の痛みを知る、理解する事が重要なのは自明の理。しかし、それが出来ないのは誰もが自分の負の歴史をなかったことにしたい願望があるからでは無いか?と思うことが良くあります。
私は50代半ばを過ぎて、付き合いのある周りの人も年下であることが圧倒的に増えました。事業所では代表者なので、指導する立場にあります。社外でも、年齢を重ねているだけで、丁重に扱われることも増えました。それに甘んじていると、つい偉そうな態度になったり、上からモノを申したり、人の意見を刎ねつけたりを、つい繰り返してしまいそうになります。老害の誘惑とでも言うのでしょうか。これではコミュニケーションどころでは無く、ヒエラルキーを肯定し、またそれを求めるようになってしまいます。全く優しさの欠片もありません。
恥ずかしい事が言えちゃう欺瞞
老害の誘惑はなかなか強く、自分自身を戒めるのに私自身も手こずっておりますが、実はこの現象、年寄りだけの問題ではなく、歳の若いもの達にも程度の違いはあれども、強い影響を与えていると感じています。
一人前の大工になったら、誰もが偉そうなことを話しますが、数年前までは先輩にこっぴどく叱られていたりした訳です。
悔しい思いを乗り越え、切磋琢磨して技術や知識、経験を身につけて、出来なかった事が出来るようになるのは素晴らしい事ではありますが、それを笠に着て後輩に「こんなことも出来んのか!」「何度同じことを言わせたらわかるねん!」など、強い言葉で叱責したり、簡単なことが出来ないと馬鹿にしたりするのを散見します。もちろん、これは大工の世界だけの事ではなく、先に行ったものが後から続くものに対して、(元は自分も出来ていなかったにも関わらず)偉そうに物言う場面に数多く出会います。誰もが初めは見習いのズブの素人、何も出来なかった頃の少し前の自分を思い出せば、恥ずかしくて言えないような事も胸を張って言っちゃうのは、昔の出来なかった自分を忘れだっているとしか思えません。
是非とも初心忘るべからず
成長の過程の失敗や戸惑い、初めてのチャレンジの際の不安、新しいコミュニティーに交わる時のストレス、若かりし頃の何も出来なかった頃のことや、誰にも知られたくない恥ずかしい黒歴史。そんなことを忘れてしまうのは非常に都合が良いですが、それらは長い人生を生きていれば必ず誰もが通る道。本来、忘れてしまう必要もなければ、恥ずかしがる事もありません。そして、その未熟だった時のことを覚えておくべしと強く述べられているのが、世阿弥が書き残した『花鏡』です。以下の通り。
世阿弥が花鏡に初心を絶対に忘れるなと書いてあるのは、芸を身につけて一流の能の舞手になることだけにとどまらず、一流の人としての在り方も含んでいるのは想像に難くありません。少し表現は違うかも知れませんが、初心を忘れないことで優しい人になり、人との良い関係性の構築を出来る力を身につけることの重要性とその要諦もそこに指し示されているのだと思います。世界平和も社会課題解決も人に優しくする人が溢れることにインサイトがあると思うし、年老いてもダメだった自分を忘れる事なく、誰とでも謙虚に向き合う姿勢だけは絶対に忘れない様にしたいと思うのです。
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職業能力を身につけられるキャリア教育の高等学校の運営を行なっています。