マーケティングの劣化と陳腐化
昨日のnotedでは経営(事業)の目的について私の考え方と言うか私見を整理してみました。一言で乱暴にまとめてしまうと「経営とは(同じ目的を共有するメンバーで構成される)組織を持続させる仕組みの構築、若しくは状態を整えること」と言うのが神戸の片田舎で小さな工務店を20年間経営者を続けてきた私の現時点での結論です。
事業所としての組織を持続させるのに必要なのは取りも直さずキャッシュフローであり、それを担保する売り上げ、利益です。企業倒産の理由の98%は売り上げの減少であり、キャッシュが回らなくなった時点で事業所は消滅します。いくら崇高な理念を掲げていても、持続できなければ意味はないし、事業の破綻は多くの人に大きな負荷と負担をかける事になります。喜ぶ人は誰もいないことを考えれば、事業破綻を招くのは最悪の悪行だと言っても過言ではありません。最近、NHKの大河ドラマで取り上げられて話題に上る機会が増えた日本資本主義社会の父と言われる渋沢栄一氏が提唱した「論語と算盤」や二宮尊徳先生の「道徳なき経済は罪であり、経済なき道徳は寝言である。」との言葉は事業に対して理想を掲げる事と、売り上げ利益をあげることは全く一体として考えなければならないとの深い示唆というよりも真理を示していると思っています。昨日の続きとして今日はその理念を支える経済の部分について(沖縄からの画像と共に)書き進めたいと思います。
資質無き経営者
私は、ロクに学校にも行っていない、全く学のない大工あがりの経営者で、時流と勢いに身を任せて起業して経営者になりました。しかし、なんの知識も哲学も持っていない、先行きの見通しも持たない人間がスタッフやその家族など、人様の人生の糧を預かる大きな責任を負っているというのは、非常に頼りなく、不幸以外の何ものでもありません。もし事業を継続できないような事になれば、それこそ二宮尊徳先生が言われる様に多くの人に損害と迷惑をかける深い罪になります。私は起業してまもなく、そのことの重大さに気がついて、これはマズイと遮二無二の勢いで経営にまつわる財務、労務、コミュニケーション、そして売り上げ、利益を持続継続的に作り出すマーケティングの勉強に取り掛かりました。15年前のその当時、私もまだ、営業、現場の最前線で仕切るプレーイングマネージャーだったので、スタッフには仕事をほっぽり出して勉強といいながら出張で会社を空けまくる私のことが奇異に、また苦々しく映っていたと思いますし、実際、批判的な意見を具申された事も少なからずあります。
信頼第一
その当時の私の興味の中心は、原理原則に基づいた、確度の高いマーケティング理論の習得とその理論を実業に落とし込んで実装する事でした。原理原則に沿った理論とは非常にシンプルで、昔から言われ続けている信用第一、信頼される者と書いて儲かるという字で表す。との、誰もが知っており、分かりきっている事ではありますが、それを事業そのものに転換して具現化しているような事業所は私の身の回りには無く、なんとか自社で実現したいと思ったのでした。
目指したのが当たり前の理論の具現化ですので、実施する内容も別段奇抜なことは何もなく、当たり前の積み重ねの上に事業が成り立つようになればと思い、考えたのはまず、顧客に信頼してもらえる体制づくりでした。私は元大工で、創業当初は営業として受注活動をしながら職人として毎日現場に出て作業も行っていました。その当時の顧客は、営業担当者であり、現場責任者であり、建築のプロとしてのアドバイザーでもあり、アフターメンテナンスまで窓口を務める私に対して非常うに喜んでくれて、一度仕事でお付き合いが始まると、これからずっとお願いしたいと言ってくれました。マーケティンング用語で言う LTV(ライフタイムバリュー)の獲得であり、未来の売り上げの根拠を作っている実感がその当時の私にはありました。
原理原則の実装
事業を続ける中で、徐々にスタッフの人数も増え、現場数も増えて行く中で、確かに売り上げも増えましたが、それまでには無かったクレームも受けるようになってきました。顧客の信頼を損なうというのは、その現場の利益も無くなってしまうだけではなく、その顧客からは派生するリピートや紹介の仕事を全て失うことになるだけではなく、悪評が広がれば、そのうち誰にも相手にされなくなってしまいます。この問題を私が当時熱心に学んでいた原理原則論に照らして解決策として行ったのが、大工の正社員化とその社員大工に対する教育で、まず初めに取り組んだのがコーチング的なコミュニケーションの研修と、理念の浸透でした。14年間毎日書き続けているこのブログもその当時にスタートさせ、もちろん、情報発信による対外的な認知拡大や経済的効果も見込んでいましたが、半分くらいは社内に向けて私の考え方や理念の実現に向けての理論構築、その実践を配信する目的がありました。実は今もその位置付けはあまり変わっておりません。
企業は人なり
要するに、私がマーケティンングを学び、実践したことは、顧客に圧倒的な信頼を得られる様に、私が普通に出来ていた当たり前のことがどの現場でも叶えられる様に、大工の正規雇用と教育を行ったことに集約されます。もちろん、積極的なアフターサービスや情報発信、顧客との接点を増やすイベントの開催などの仕組みづくりも行いましたが、結局、企業は人なりの原則に従って、研修や教育のコミュニケーションに注力しただけだと言っても過言ではなりません。 その結果として、経営の神様ドラッカーの「マーケティングの究極の目的はセリング(売り込み)を一切なくすことである」との言葉通り、10年以上前から全ての宣伝広告を取りやめて、紹介と繰り返しの注文を頂くリピーターの顧客からの売り上げ割合は98%になり、そのおかげでこれまで20年間事業を続けてくることができました。今では私がノータッチの現場でも当たり前のように顧客満足のアンケートで殆ど100点満点の満足度を示してもらえるようになりました。 結局、当たり前のことを誰もやっていないレベルまでやり通す、本来、顧客に提供すべき価値をきっちり担保する、事業所のあるべき姿に真摯に向き合うことを私たちはマーケティングと呼び、取り組んできただけですが、このマーケティングという名称の定義が20年前と今とでは随分と変化したように感じています。
マーケティングからの離脱
私たちは市場の構築のための仕組みづくりのことをマーケティングと定義してきましたし、呼んできました。そこには本質を探求する哲学的な思考が確実に存在していたと思います。しかし、現在はYouTubeの撮影や配信の仕方から、Instagramのの写真の撮り方、補助金提案のスキームや、ブログやメールマガジンの書き方、活用法まで全てマーケティングと呼ばれますし、むしろ、そちらの印象の方が強くなっている感さえ否めません。私にすればそれらはどちらかというとセリングに近いと思いますが、一般的には既にセリングとマーケティングの違いなどどうでも良いし、実態としてほぼ同義語として扱われているのが現実だと思います。マーケティングという単語、概念の一般化と同時に劣化と陳腐化だと私は感じています。
そのような現状を鑑みると、私達が長年学び続け、考え、行動し、そこで得た知見を研修事業として立ち上げている視点からすると、伝えたいことをマーケティングと称するのは既にそぐわなくなっており、違う表現に置き換えるべきだとこのところずっと感じていました。これからは明確に「ノーマーケティング」の立場を取り、本質的な思考とその実践を推進する新しい呼び方、名称を考えることにします。
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https://www.shokunin-kigyoujyuku.com
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