わかってる、けど出来ない。から脱出する方法 #ミルクボーイ式腹落ちトレ
何を隠そう、私は「改革」好きです。常に改革に取り組んでいたい性質で、それがが珍しいか、変わっているかは別として、いくつになっても新しいことを学びたいと思う気持ちがあり、学びの場に足を運ぶと必ず気づきがあります。その度に、そうか!と世の中の真理に一つ気が付いたのだと思い、現状を鑑みて、もっと良くすることができるのではないか?と夢見てしまいます。もう一つは極端な臆病者で未来の事が心配で常に何か未来に対して状態を整えていなければ気が済まないというか、じっとして居れない性格何だと思います。
その結果、いつも変化変容せねばっ、と、改革に熱心に取り組んでしまいます。事業所の代表を務めていたり、企業の社外顧問に就ていたり、団体の理事を拝命していたりするので、立場的に改革を行うと言ってもそれは常に私一人で行うのではなく、周りの人や組織を巻き込んで、新しいチャレンジをやろうぜ!と煽ることを指します。そんな、ある意味鬱陶しいと思われがちな私がこれまで延々と改革に取り組んできて感じたそこはかとない違和感をこの場で整理してみたいと思います。(^ ^)
変化を好むのは子供
そもそも、大半の人は変わることを嫌います。改革しようぜー、と誘っても「何も無理して新しいことを次々やらなくても今のままで幸せやし、このままでいいんだけどなー、」と思っている人の方が多いと感じますし、実際、これまで何人もの人に、「なぜ、新しいこと(改革)に取り組まなあかんのですか?」と真顔で聞かれました。(笑)その本当の理由は、私が子供っぽくて、常に変化したいと思う性格なだけかも知れませんが、それは流石に口が裂けても言えないので、未来に潜むリスクをこれみよがしに並べ立てて危機感を煽り、「変化しないととんでもない事になるで〜」と脅すのが常です。少し悪い気もしますが、私が熱心に訴える未来のリスクはあながちデタラメではなく、心配性の自分としてはリアルに予防対策をしなければならないと思っているので、その場凌ぎの上っ面の取り繕いというわけでもありません。自分自身のことだけではなく、相手のことも考えて、リスクに備えるべきだと思っているのは私にとっての(一応、)真実ではあります。
半強制のコミットメント
私が改革をやろうぜ!と言い出す時のロジックは以下の通りです、
未来が不安→あれこれ新しいことを学ぶ→気づきを実践に落とし込みたくなる→現在の問題点に気づく(見つける)→課題解決した先の未来を妄想する→周りを巻き込んで取り組む→実践と検証をしつこく行う。
と、こんな流れなので、改革すべきテーマが明確にあって、それを解決するために情報収集するわけではなく、私の中にそこはかとない未来への心配や学びたいというモチベーションがまずあって、情報収集をしまくった結果、後付け?で改革案を立案することがほとんどです。毎年、一年の初めに自社内で披露する事業計画書はその最たるもので、前年に勉強したことが顕著に反映されていて、事業計画書を振り返ってみてみると前の年にどのような学びをしたかが一目瞭然で分かります。
このような流れで、「現状維持は緩やかな破滅への道やでー」と脅されて、改革に取り組もう、新たなタスクにチャレンジするか?と私に訊かれると、殆どの人は否応なく、「あ、はい、」と答えられます。一応、合意をとっているように見えますが、その実、拒否すると、また、なぜ改革が必要かとの演説を延々と聞かされるわけで、半ば諦めて、強制ではないけど、強いられた感の否めない合意が形成されます。
出来なかったのでは無く、そもそも分かっていない
その結果がどうなるかを考えれば容易に想像がつきますが、進捗確認のリマインドを行うと、常に一定数の人が、新たなタスクに取り組んで改革を起こす一歩を踏み出したか?という私の煽りにも似た応援の様な問いかけに対して若干迷惑そうな雰囲気を醸しながら「やろうと思ったけど、出来てません。」と申し訳そうに言葉を詰まらせます。この場合、殆ど全員が行動を起こさなければならないことは分かっているが、忙しい、時間が無い、優先すべきタスクがあり、それどころじゃ無かったと口にされます。額面通り受け取れば、じゃあ今月は時間を作れる様にしてがんばってみよう!と前向きな言葉をかけて応援すれば良さそうですが、そのパターンは大体、翌月も同じ結果になり、それが延々と続きます。結局、何一つ分かっていない、改革など関係なく、今の延長線上で平和に暮らしたいとの思考がその時点で明らかになります。人は理性で理解できた事を全て行動に移せる訳ではなく、感情が行動を司ると言いますが、ロジックをいくら並べ立てても人に行動を促す事は出来ないもの、そもそも変わる事にネガティブな感情を持っていると、いくら行動を起こす必要性を訴えられても、感情では分からないのかも知れません。組織が改革、変容し難いそもそもの理由はここにあると思っています。
I am not i was!
若い頃、どうしようもないどん底の暮らしから抜け出そうと思い始め、成人を前に変わろうと決心しました。その時、自己肯定感の低さから、「今日のオレは昨日のオレじゃない。明日のオレは本来のオレに一歩近づいているはずや!」と習慣に取り組むことを覚えた改革好きの私としては、そんな「変わりたくない人」の思考が実はもう良く分かりません。表面上では取り繕いながら、心の奥底で分かり合えないもの同士の会話は不毛ですが、私が推奨する改革は一応、組織を理想の姿に変容させる方向性であったり、顧問として入っている場合は仕事そのものだったりするので、私としてはそのままおざなりにする訳にもいかず、なんとか感情に訴える術を持たなければなりません。「分かったと(理性では)言っているが、(感情では)全く分かっていない人と共に改革を行う」というなかなか根の深い問題の解決の糸口の一つに、その逆を肌感覚で身に付くまで繰り返し練習してみてはどうかと思いつきました。理屈は簡単で、わかっていることを言葉上でわかっていないと言い続けるだけの事ですが、実際、たまたまこれが奏功する事例にいくつか出くわしました。
ミルクボーイ式腹落ちトレーニング
問いを立てる→ヒントを見つける→答えを提示する→でも分からんねんなー、とのくだりを延々繰り返すのは、Mー1王者となって一世を風靡したミルクボーイの鉄板漫才ネタです。関西人なら多分、普段の会話の中でこのボケを繰り返すミルクボーイごっこを一度ならずされた事があると思います。
例えば、組織改革の取り組みの一丁目一番地である、事業所の存在価値を共有しようと、自分たちが提供する価値とは?との問いを立てた場合、答えは大まか、既に経営理念やビジョンなどで共有されており、皆がある程度の共通認識を持っているものです。「すべての人に笑顔を」とか「誰もが取り残されない世界」とか「社業を通して社会に貢献する」とか「四方良しの世界を叶える」等々、目指す先は(ぼんやりしているとしても)全員理解している訳で、それを実際にどのように行うかを自分なりの言葉に置き換えて腹落ちするものに転換させる場合、答えは既にあり、切り口を変えるだけの言葉遊びのようなものです。
B:「まずはお客様に喜んでもらえる高いクオリティーの仕事をせなあかんともうねん」
T:「そやがな、それをやったらみんな笑顔にねっていくんやがな」
B:「でもわからんねんなー、品質だけやったらあかんて言われてん」
T:「そりゃそうやがな、それじゃみんな笑顔になったりせんやないか」
B:「でもわからんねんなー、お客さんの立場に立って考えなあかんて思うねんなー」
T:「そやがな、なんと言ってもやっぱりコミニケーションが大事やがな」
B:「でもわからんねんなー、一緒に働く職人さんのことも考えたらなあかんて思うねんなー」
T:「そやがな、お客さんと自分だけやったらみんなの笑顔とは言わんがな」
R:「でもわからんねんなー、・・・・・」
といった具合です。(笑)
わかっている(はずや)けど、なかなか思うように行かないってことは日常的にいくらでもあると思います。そのジレンマを打開するのに一度ミルクボーイごっこにトライしてみられては如何でしょうか?
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