営業希望の新卒が、編集者になった話。①
2016年4月14日、就活真っ最中の僕は、被災した。その災害には後から「熊本地震」という名がつけられた。この震災をキッカケに、僕の価値観は――特に何も変わっていない。
それはきっと、自宅の被害がそうひどくなったこと、親族にも友人にも特に被害がなかったこと、そして何よりも「就活に精いっぱいになっていて、それどころではなかった」ことが原因だ。被害の様子を映したテレビは、見ると不安になってしまうため、見なかった。ツイッターにはさまざまなデマが流れており、見なかった。そうしたことも影響していたことだろう。
もちろん、苦労したこともあった。説明会や面談が頻繁に実施されていた福岡へのアクセスが途絶えたこと、そして、ボランティアに行っている仲間がいるのに、自分だけのうのうと就活に興じていていいのか?という焦りに駆られたこと――、言うならば、そういった自分に関係する話題にばかり、気を取られていた。
高校生・漠然とやりたいことを言語化する期
2011年3月11日、教室で友達とくっちゃべっていた僕は、被災の怖さを知った。その災害には後から「東日本大震災」という名がつけられた。この震災をキッカケに、僕の価値観は変わった。いや、変わったということにした。
振り返ると、熊本地震よりも東日本大震災の方が、その後の僕の人生に影響を与えることになる災害だったように思う。
高校3年生、進路先を選択するにあたって、僕はやりたいことを考えた。当時の僕は、たしかこんなことを言っていた。
「福島の原発事故の報道を見て、放射能汚染の怖さを知った。修学旅行では長崎に行ったし、語り部の話も何度も聞いた。僕の祖母は天草の家から、長崎であがったキノコ雲を見たらしい。長年放射能に悩まされたこの日本に生まれたからこそ、僕は放射線の知識を身に着けたい」
そんな考えから、僕がまず目指したのは「放射線技師」という仕事だった。「放射線」という言葉が職業名に入っていたからだ。そこでどんなことを学べるのか、ということは深く考えなかった。
自分の考えを言語化するというのはどうやら大事なことのようで、この考えは僕に「夢」を持たせた。その進学先に行くために、結構勉強を頑張った。
しかし、センター試験であまり調子が出せなかった僕は、第一志望の医学部に行くのは難しい状況に陥った。家庭の経済状況もあり、浪人をすることは考えていなかったので、第一志望は諦めることにした。しかし、幸運なことに当時『夢の扉』(テレビ番組)で見た、「放射線を吸収する材料を開発している」という研究者を知り、新たな進学先を探している真っ最中に「材料工学」という学問に興味を持った。
そして、僕の出身である熊本大学の工学部に入学することとなる。
大学1年生・社会怖い期
大学1年生の時は、海外でボランティア活動をしたことのある先輩や、大学の枠を超えて、学外でさまざまな活動をしている先輩たちに影響を受け、さまざまなイベントに参加するようになった。
「稼ぐ」を学ぶためのインターンシップ、大学を横断した若者たちのキャンプ、ボランティア団体への参加等々。所謂「意識高い系」の大学生だったと思う。周りからはそう揶揄された。なぜだかそれはすごく腹が立った。意識が高いワケだったんじゃない。ただ、学校という壁に閉じ込められているだけではなく、自発的に社会に参加してみて、「俺は、この世界でしっかりと生きていける」という自信を持ちたかったからだ。
大学2年生・ベンチャー怖い期
大学2年生の時は、先輩の紹介で地元にあるスタートアップにインターンシップで参加した。「起業」「ベンチャー」といった領域にはまったく触れたことのなかった僕にとって、そこで働く社長はすごくかっこよく見えたし、まったく社長の力になれない自分に悔しさを感じ、そして失望した。
「俺もあんな風に、仕事を楽しむ、カッコイイ大人になりたいな」
そう考えるようになった。でも、ベンチャーやスタートアップに行っても、僕はついていけないんじゃないかな、と苦手意識を感じることになった。そしてそれは、振り返ると一種のトラウマでもあった。
大学3年生(夏)・ものづくりへの情熱をなくす期
大学3年生の時は、ある大手企業のインターンシップにいった。その企業は、僕がいた学科で学んでいることと近い仕事をしていた。しかし、その時にメンターになってくれていた、社会人歴3年ほどの先輩の働きぶりを見て、少し違和感を覚えた。
「この人は、仕事を楽しんでなさそうだな」
大学3年生(冬)・トラウマと向き合う期
工学部の友人は、そのほとんどが大学院に進学するつもりでいた。そして、僕もそのつもりだった。
練習がてら、少しだけ経験してみようと思って参加した就活セミナーで僕は、その後の人生の転機に直面した。
それは、とあるベンチャー企業のインターンシップの紹介だった。正直、大学2年生の経験で、ベンチャー界隈には軽くトラウマがあったのだけれど、一度ダメだったからあきらめる、という考えではこれから先、いろんなことから逃げて生活することになりそうだなとも思い、勇気を出して参加することにした。
いくつか課題はあった。
①インターン期間は約1か月と長期
②インターンの場所は、自宅から通える距離ではなく、マンスリーマンションを借りる必要があった
③インターン終了直後に院試があるため、その1か月間勉強できないことはかなり痛かった
それでも僕は、挑戦した。これからトラウマを抱えて生きるよりは、そこで挑戦して、かつての失敗体験を成功体験で上書きしようと思ったためだ。
しかし、そこで僕は思った通りの結果を出せなかった。正直、死ぬほど悔しかったし、死ぬほど泣いた。成績発表の時には、心臓がひっくり返った。「俺の人生、終わった」とまで思った。
ただ、幸いなことにそれからすぐ、「絶対に見返してやる」と考えた僕は、トラウマを乗り越えた。
始まる就活・やりたいことが見つかる期
インターンシップを終えた僕は、もう大学院に行こうとは思わなかった。幸いにも、入っていた研究室が、僕がかつて見た「夢の扉」に出演していた研究者がいる研究室と近い分野の研究をしていたため、少しは後ろ髪をひかれていたけれど、それでも僕は、大学院で2年間を過ごすよりは、ベンチャーで2年間、悶えながら成長したいと思ったから。
インターンシップを大学3年3月に終えてから、就活のイロハも知らぬまま、僕は片っ端に採用試験を受けまくった。就活では、エントリーシートを書く必要があるとか、試験があるとか、グループディスカッションがあるとか、そんなことをまったく知らないまま、その環境に飛び出した。
セミナーを受けたり、面接を受けたり、面談を受けたりしていく中で、少しずつ自分がやりたいことが見えてくるようになった。
「俺と同じように、大学で進みたいキャリアが変わってしまった人を、サポートできる人になりたい」
そうして僕は、人材企業に入社することになった。
希望職種は、法人営業だった。しばらくキャリアを積んだら、キャリアアドバイザーになって、理系学生の就活をサポートしたい、と思っていた。
そして、社会人1年目へ
2017年4月、入社式で僕は配属先を発表された。
肩書は営業ではなく、「編集者」だった。
「え、編集者ってナニ?あの、本とか作る人?バクマンで見たことあるケド」
そうして、営業志望だった僕は、編集者としてのキャリアをスタートすることになった。
(続)