2024.8.29 その日から遠く離れた(ところ)にいる
短いけど、振り向かずにそっぽを向いたまま聞いてほしい。
僕は変わらないものの価値はおそらく誰よりも理解している。明日が誰かの十分な準備によって成り立つ、特別な日であることも感じとれる。誰かを想像し誰かに姿を重ねる寂しさも論理の上でなら共感できる。似たような夜から似たような朝に、決まったように丁々発止と講釈を切り結びそれぞれのその日を完了させる価値観も捨てたものじゃない。
しかし僕にとっては、一生ミスのない卓球のラリーを続けているようでもある。あるいは溜まったごみを溜まったダストシュートに投げつけるようでもある。
もともと帰属意識の薄く社会性に欠けた非生産的身分であるからして、喜びの先には喜びがある。さらなる喜びを呼び込みさらにそれを強く感じ続けるには、もはやCPUの動きを阻害する邪魔なプログラムを削除していく作業しか残っていない。合理性の追求、といえば聞こえはいいが、薬物中毒の方法を否定する以上は、つまりシビリアンコントロールの機能を失わせる暴力の肯定に繋がるようだとも言える。
だからこそ原始の時代から現代に至るまでヒトには理性が存在し、それを正しく遵守できる(≒できる環境に恵まれた)人間にはセロトニンの適正な分泌が許されている。それこそが本来、生命的で、かつ高度文明的な生存競争である。僕は片足をひっかけても、そこには登れなかった。
今ここで、安心してあなたが振り向いていないことを確認できる。やはり最高の友人だ。どうもありがとう。
このnoteでの連載は、次回から、少なくとも年内いっぱい毎月最終木曜のみの更新とする。少し背が伸びているといいな。
ここではお好きに。