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受け持ちが、いない

出勤して、病棟のフロアに足を踏み入れた瞬間、すぐに違和感に気がついた。

病室の前に、救急カートや処置カート。
普段ステーション内にひっそりといる彼らが病室の前にいる。
そう、普段とは違う風景。

反射的に病室を覗いたら、目が合ったスタッフが涙目で言った。

「先輩…!」

その一言で、すべてを察した。

私の仕事道具は、すべてナースステーションのロッカーに置いてある。だから、何も持たずに、そのまま病室に入った。

患者さんの急変。
対応に入ると、頭の中のスイッチが切り替わる。なんで?って言われても分からない。そんな風にもうできてるんだろう。

胸の奥に何かがこみ上げるのは、いつも全部終わってからだ。

それでも、目の前の命に向き合う。
できることを、一つずつ積み重ねる。だって今の私にはそれしかできない。

急変の対応は、いつだって無心になる。
あれこれ考える暇なんてない。心電図の波形も、脈拍も、一瞬の瞳孔の変化さえ患者さんが全力で私に教えてくれる情報だ。
一瞬たりとも逃さない、逃したくない。

時間の流れが早いのか遅いのかも分からないまま、気がつけば一段落していた。
安定した心電図の波形が目の前にある。

ふう、と息をついて、ナースステーションに戻る。
ああ、そうだ。ずっとあの部屋にいたからここにくるの今の時間になってしまった。
そのとき、ふと目に入ったのは、受け持ちが振り分けられているホワイトボードだった。

そこには、今日の受け持ち患者の名前が書かれている。
──はずなのに。

私の名前の欄は、ぽっかりと空白だった。

いや、違う。

よく見ると、私の受け持ちの患者さんたちは、すでに他のスタッフの名前の下に割り振られていた。

「……」

何も言えなくなった。

私が急変対応に入っている間に、他のスタッフたちが、私の受け持ち患者さんを分担してくれていたのだ。
「戻ってきてからもすぐ動けるようにって、みんなで振り分けました!」

誰かがそう言った。

なんだろう、この感じ。
ホワイトボードを見た瞬間、じわっと胸が温かくなった。

みんなが私の状況を見て、考えて、自然と動いてくれたことが、ただただ嬉しかった。

看護師の仕事は、チームワークだ。
でも、こういうのは、指示があってすることじゃない。

「誰かが大変そうだから」
「今、自分が動いた方がいいから」

そんな小さな気づきの積み重ねが、誰かの負担を軽くする。
私だって、今まで何度も誰かに助けられてきた。

急変に駆けつけたとき、隣にいる誰かの存在が心強くて。
忙しすぎて手が回らないとき、「やるよ」と言ってくれる人がいて。

私はいつも助けてもらってばかりだ。

「ありがとう」

ありきたりな言葉しか出てこなかったけど、
ホワイトボードに名前がなかったことが、こんなに嬉しいなんて思わなかった。

この仕事をしていて、しんどいことなんて数えきれない。数えたらとっくに辞めてる。
でも、こういう瞬間があるからまた頑張れるのかもしれない。

あなたたちがくれた優しさ、絶対に無駄にしないよ。

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