いつか人は死ぬのに、それを誰も知らない
もし、あなたの大切な人が病院のベッドに横たわり、意思を示せなくなったら、あなたはどうするだろうか?
あなた自身が病気になり、苦しい治療を受け続けるのか、それとも静かな最期を選ぶのか。
考えたことはあるだろうか?
病院のベッドに横たわる人の姿を見て、あなたは何を感じるだろうか。
病室のベッドに横たわる一人の患者。
痩せ細った体は何本もの管に繋がれ、自ら呼吸をする力もなくなっている。
静かに鼓動を続ける身体の横には、無機質な人工呼吸器。
機械が代わりに一定のリズムを保ち強制的に酸素を送り込んでいる。聞こえるのは、定期的な機械音と看護師の足音だけ。
その光景を目のあたりにしながら、私は自問する。
「これは本当に “生きている”と言えるのだろうか?」
その光景に、「尊厳はどこにあるのか」と思う人もいるかもしれない。
「ここまで生かす必要があるのだろうか?」
「税金の無駄では?」という声すら、うっすらと聞こえてくる。
そして、その一方で私はこうも思う。
「人の人生は、その人自身が決めれば良い」と。
でも現実には、本人が意思を伝えられないまま“生かされてしまう”ことがある。家族の希望、医療の進歩、制度の中で、命は延び続ける。
そう、ただただ延び続ける。
その姿を見た時、私はどうしても複雑な気持ちになるのだ。
この患者さんは家族がいるから幸せですよ!と満面の笑み言えたのはいつまでだったろうか。
世間知らずで無知な看護師でいられた方がどれだけ楽だったんだろう。
知識も経験も増えた。
だって、数えきれないくらいの患者と家族に出会ってきた。
“生かされる”ことと“生きること”の違い
現代医療の力は偉大だ。
呼吸が止まりそうになれば機械が補い、栄養が摂れなければ管を通して流し込む。
人間は、かつての限界を越えて「生き続ける」ことができるようになった。
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