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親の介護と自分のケアの記録 その20 2023年7~8月

親に由来すると思われる生きづらさを抱え(いわゆる宗教2世当事者という側面もあります)、2021年3月からカウンセリングに通い始めました。
これから介護などの必要が生じて親と向き合わなければならなくなる前に自分の問題を棚卸ししたい。
そうカウンセラーに伝えた矢先、母が脳梗塞で入院することに。
自分を支えるために、その経過を記録しています。

7月第3水曜日 実家手伝い
ケアマネさんの月次訪問、生協宅配物の整理、キッチン清掃、母の話を聞く

ケアマネさん。
さすがに暑いので、最近はマスクを外しているが、初めに会ったときからずっとマスク姿しか見ていないので、マスクを外した顔になかなか慣れない。目の印象から、勝手にマスクに隠れた鼻と口を想像してしまうものなのだな、と思う。

電動車椅子導入に向け、訪問リハビリの際に玄関の段差乗り越えの訓練に力を入れている母。最近はかなり上達しており、涼しくなったころに電動車椅子に切り替えたいという話をする。

同席していた父に、ケアマネさんが話を振った。このごろは出ていなかった「たまには母にショートステイに行ってほしい」という話が久々に出る。ケアマネさんが、近所に比較的自由度の高いショートステイの施設があると言っていたので、スマホに施設名をメモ。涼しくなったら一度見学に行ってみてもいいかもしれない。でも、食べられないものがやたら多い母。食事がネックなんだよな…と思う。

ケアマネさんが帰ってから、なんとなく母とゆっくり話す。

私の娘が近所の公園でやたら人慣れしている猫と遊んだ(全然逃げないので、かなり長時間のどあたりをなでていた)という話から、母のペット遍歴の話に。
私が実家にいたころは猫、うさぎなどを飼っていたが、私が生まれる前にもいろいろ飼っていたらしい。初めて聞く話だった。

文鳥を飼っていたこともあったという。やたら人になつく文鳥で、かごから出すと母の体にまとわりついてくる。あるとき、足元にいることに気づかず、うっかり踏み潰してしまったらしい(…!)。すごくショックだった、と言いつつ、なぜか爆笑している母。

あと、亀を飼っていたこともあり、結構長いこと飼っていたのだが、水槽を洗うのに外に出していたとき、うっかり団地(5階)の廊下から転落し、それが原因で死んでしまったらしい。このときもすごくショックだった、と言いつつ、ずっと笑っている。

私もなんだかよくわからないが笑いがこみ上げてきて、二人でしばし笑っていた。

母は、なんだかよくわからないことで笑いが止まらなくなっていることがしばしある。これが母の持つもろさのようなものとどこかつながっている気がしているが、うまく説明はできない。

さらに、沖縄の母の実家では、豚、鶏、ヤギ、うさぎなどを飼っていた、というような話も聞いたが、細かいことは忘れてしまった。

7月 第4水曜日 実家手伝い
福祉用具の定期点検、いつもの手伝い

8月 第1水曜日 実家手伝い
訪問リハビリ立ち会い、いつもの手伝い

訪問リハビリ時に訓練している玄関の段差乗り越えがだいぶ上達しているということで、訪問リハビリに立ち会い、上達ぶりを見学。介助方法を教わるつもりだったが、特に介助の必要はなく、見守るだけで大丈夫そう。今担当してくれている理学療法士さんは、チャキチャキ、サバサバとしていて気持ちのいい方。

最初のころに担当してくれていた方が異動したり、退職したりで何度か担当者が変わったが、結果、今来てくれている方とは、母はとても相性がいいようで、ほっとしている。

母はリハビリにはかなり前向きなので、理学療法士さんとしてはやりやすいのだろうと想像する。かなり微妙な新興宗教の信者、という側面は、私にとっては大問題でも、仕事として母のケアに関わる方々にとっては、(頻繁に勧誘とかをしてきたり、教義を理由に何かを拒んだりしてこない限りは、)「そうなんですね」という程度のことなのだろう。私が彼女の立場でも、当然そうだろうと思う。当たり前のことだけれど、「そうなんだよな」としみじみと思う。

飲み終わったペットボトルが床に散乱していたりするキッチンを、淡々と片づける。子どもか、と思う。85歳と77歳の子どもが二人で暮らしているのかもしれない、とふと思ってみる。自分の状態によっては、怒りにまみれながら掃除をする日もあるが、この日は不思議と、怒りはあまり生じなかった。

8月 第1木曜日 母の月イチ通院に付き添う

お盆休み前ということで、病院も薬局もいつもより混んでいた。
いつもは血圧のことで、医師と母との間で小競り合いがあるが、今日はもう、この暑さで元気そうなら二重丸、みたいな対応であっさり診察終了。
薬を飲みたがらない母にどう対応したものか、依然として悶々とするが、北風と太陽みたいなもので、私が言い方を軟化したら、母のほうも頑なさが少し抜けた気がする。

8月 第2水曜日 実家の手伝い
かぼちゃ煮、チキンナゲット、キノコマリネ、タマネギの酢漬け 持参

ざっと雨が降ったりやんだり、天気が不安定な日だった。

実家に着くと、母がYouTubeを見ていて、開口一番、「この動画によると、コレステロールの薬はあまり意味がないらしい」みたいなことを言ってきて、少しイラッとする。母は結構な頻度でYouTubeを見ている気がする。「うさんくさい情報も多いと思うから、気をつけたほうがいいよ」と言うと、「変なのは見ていないから大丈夫」とか言ってきて、余計にイラつく。「ちょっと情報を入れすぎじゃない? というか、私が来ているのにずっとYouTube見てるって、失礼じゃない?」と言うと、不本意そうにしながらも視聴をやめた。

両親に怒りを感じる頻度がかなり減ってきてはいる。が、当たり前だが、怒りがゼロになったわけではない。この日はイラつきが少し強かったので、最低限の掃除や頼まれ仕事をして、母とはあまり話さず、さっと退却した。キツさを感じたら、逃げるのが一番。

以下、読んだ本から引用。
図書館で借りていた
・『まんが やってみたくなるオープンダイアローグ』 解説 斎藤環
・『なぜ人はカルトに惹かれるのか ――脱会支援の現場から』 瓜生崇
・『家族』 村井理子
から。

こんなつもりではなかったのだが、読み返し始めたら、『なぜ人はカルトに惹かれるのか』からの引用が膨大になってしまった…
そのくらい、私にとっては身につまされる内容だったようだ。
書き方が全体的に少しナイーブすぎる気はしたし、主な読者として想定しているのは、カルトに入った子どもを脱会させたい親であるようだった。
この本に書かれているような姿勢で私が親にかかわるのは、かなり険しい道だと思う。
それでも、親とのかかわりを考えるうえでのヒントは多かった。
引用しているうちに、オープンダイアローグの本とこの本に書かれている内容がかなりリンクしていることに気づけたことも収穫だった。

オープンダイアローグの本にあった、「対話とは、主観と主観の交換である」、「向こうは主観を話しているけど、私は客観的、という態度ではうまくいかない」という言葉にはっとした。

母に会う直前に、毎回これらの引用をざっと読んでから臨むといいかもしれない、とちょっと本気で考えている。

 変えようとしていないからこそ変化が起こる――この逆説こそが、オープンダイアローグの第1の柱です。オープンダイアローグでは、治療や解決を目指しません。対話の目的は、対話それ自体。対話を継続することが目的です。
(中略)治療というのは非常に繊細な過程です。特に精神科の場合は、まわりが治そうと頑張りすぎると治らなくなってしまうということはしばしば起こりますし、治療者のほうも「何がなんでもオレが治す」みたいに意地になると、逆にこじれてしまいやすい。治療も人間関係ですから、一方通行の意思が発動すると有害な反作用が起きることはめずらしくないわけです。
 ですから、ただひたすら対話のための対話を続けていく。できれば対話を深めたり広げたりして、とにかく続いていくことを大事にする。そうすると、一種の副産物、“オマケ”として、勝手に変化(ニアイコール改善、治癒)が起こってしまう。これは一見回り道のように見えるかもしれませんが、私の経験をもとにして考えると、結局はいちばんの最短コースになっていることが多いんですね。
 裏返して言えば「対話というのは続いてさえいればなんとかなるものだ」――これがオープンダイアローグの肝だと私は思っています。(中略)
 対話を長く続けるために大事な心得は、「大事な話ばかりしないこと」です。大事な話をすると終わっちゃいますからね、対話が。あっさり終わってしまったら、その対話は失敗なんです。続くためには、ときには空想をまじえたり、本当かどうかわからないことを話題にしてもいい。対話さえつながっていれば、遅かれ早かれなんとかなる。だからひたすら対話が続くように対話をしましょうということです。

『まんが やってみたくなるオープンダイアローグ』 解説 斎藤環 P65-66

 これ(=計画は立てない)も非常にラディカルな逆説で、とてもオープンダイアローグらしい原理です。オープンダイアローグの解説では「答えがない、不確かな状況に耐える」とよく言われますけれども、そんな行儀のよいものじゃない。本当はもっと過激な原理です。
 不確実性に耐えるとは具体的にどういうことか。「ノープランで臨め」ということです。いっさいプランを立ててはいけない。予測もしてはいけない。だからPDCAサイクルみたいな発想はまったくない。ノープランで、ノー予測で、目の前の対話の過程にひたすら没頭する。これが基本姿勢になります。
(中略)
 でも、改善が起こるときって、こちらの予測を超えた形で、飛び石的に改善していくのが普通ですよね。階段を小刻みに上がっていくような感じではなくて、あるとき一足飛びに変化が起こったりとか、しばらく停滞したりとか、そういう不連続な変化で変わっていくことが多いし、その方向性もまったく予測がつかない。(中略)
 そういう意味で予測は役に立たないうえに、無意識に患者の方向性を、予測の型にはめようとしてしまう可能性もあります。予測通りに進まないと抑圧的にふるまったり、陰性感情がわいてきたりとか。
 それと、予測を立てて動く人は、予測を裏切られることが多い。するとだんだん悲観主義になっていくんです。予測を立てないでいると――予測を立てなくてもうまくいくことが多いものですから――楽観主義になります。治療においては、圧倒的に楽観主義のほうが有利です。悲観主義はなんの役にも立ちません。

『まんが やってみたくなるオープンダイアローグ』 解説 斎藤環 P67-68

 患者の主観をとことん大事にすることです。彼/彼女がどういう世界に住んでいるのか。その住んでいる世界のありようをくわしく聞いて、あなた自身の主観と交換していただきたいと思います。たとえば妄想を語る人がいるとして、その妄想について聞くときには、できるだけその世界をくわしく語ってもらうということになります。その内容がよくわからなければ「このあたりのつながりがよくわからなかったんですが、もう少し説明していただけますか?」と尋ねましょう。
 かつての医学心理教育のなかでは、「異常体験を聞くと、病状が悪化するからやめなさい」という指導がなされていました。これはもはや根拠がないことがはっきりしています。異常体験を語る人がいたら、複数メンバーで、強い興味と関心を向けながら、できるだけくわしく多角的に掘り下げる――これが正しいやり方です。幻聴でも妄想でも同じことです。これを続けていくと、驚くべきことに、改善が起こりはじめます。信じられないと言う方は、まずご自身で経験してみることをお勧めします。
 かつてはなぜそんなルールがあったのかというと、たぶん、聞き方が悪かった。聞く側の態度が悪かった。あからさまな否定や批判をしないまでも、聞く側の態度が「どうせ、それ妄想でしょ?」みたいな、あるいは「あっ、幻聴ね、わかりました」みたいな態度だと間違いなく症状は悪化します。
 症状を否定することは、その人自身を否定することです。否定されてうれしい人、よくなる人はいないですよね、当たり前ですけど。
 妄想や幻聴を尊重しましょうということです。徹底して「他者の他者性」を尊重する。これこそが治療的態度のコアなのです。
(中略)
 他者というのは、あなたの認識をはるかに超えた、計り知れない深みを持った存在のことです。それを理解することが対話では大事なんです。対話実践を続けていると、どんな患者でも、こちらの予想を超えた言葉やふるまいを見せてくれます。そういう他者性を尊重する姿勢もまた、治療のプロセスを支えてくれる大切な要素です。
 「正しさ」とか、「客観的な事実」のことは忘れましょう。それは問題ではありません。大事なことは双方の主観のみであって、対話とは主観と主観の交換です。
 「あなたは主観的だけど、私は客観的」みたいなことを言っているうちは、対話になりません。どっちも主観的なんです。だから、ときには主観どうしが対立してもいい。妄想を語る人に対しては、「私はその経験がないから、よくわかりません」と言ってかまわない。「よくわからないんだけど、興味があるので、もっとくわしく聴かせてください」と。そうすると喜んで語ってくれることが多いです。
 大事なのは「よかったら聞かせてもらえますか」「もう少し詳しく教えてもらえますか」と「お願い」する姿勢です。
 こちらに教えてもらう、という姿勢があればちゃんと話してくれますけれども、「どんな妄想か判定してやる」みたいな態度でやってると、こじれますね。態度はいろんな形で伝わりますから。態度いかんで対話ができるかどうかが決まってくる、ということになります。

『まんが やってみたくなるオープンダイアローグ』 解説 斎藤環 P95-97

Q:「相手の意見を否定しない」とのことですが、ならばどうやってこちらの意見を伝えるのでしょうか。

 ミハイル・バフチンという思想家が、こんなことを言っています。他者と自分とは、視点も、立場も、価値観も違うので、全然別の考え方をする。それが普通なのだ、と。
 だからもし本人が、自分のことを「ダメな奴だ」と否定している場合も、それを否定してはいけない。でも一方で、「私から見るあなたは、そんなひどい人間ではないし、素晴らしいと思っている」ということを伝えてもかまわない。これもまた、主観と主観の交換ですね。
 もし私が自分の考えを本人に伝えたいと思った場合は、おそらくじかに言うのではなくて、リフレクティングで言うと思います。「この人は自分をすごく否定しているけれども、どうも私にはそうは思えないんだけど」みたいなやりとりですね。直接本人にぶつけると、どうしても説得調になっちゃいますから。
 そうやって、冷静に、説得にならないように、主観性を交換していくための工夫がオープンダイアローグでは随所でなされています。そういうやりとりのなかで当事者が、自分とは違う視点を受け入れられれば、そこから自然な変化が起こるかもしれません。

『まんが やってみたくなるオープンダイアローグ』 解説 斎藤環 P111-112

 改善の過程が自分自身の内側から把握できないときに、すごく虚しい感じがするのは仕方がないことだろうと思います。しかし対話実践で回復した場合は、治っていく過程をつぶさに自分で経験しています。さらにその過程を、「みんなで共有できているかどうか」も重要な意味を持つのではないかと感じています。
 ここでおもしろいのは、治療者と患者で体験の仕方が違うことです。 薬で治した場合は、治療者はなんで治ったかを把握してますので「治って当然」という感じになります。ところが患者さんのほうは、治ったのはいいけれど、なぜ治ったかの過程が不透明なので、そういった空虚感を持つことがある。
 一方、対話で治った場合は、患者さんはそれを必然的な過程として理解できるんですけれども、治療者はちょっとポカンとしてるところがあるわけです。「まだ何もしてないのに、治っちゃった」みたいな感じがすることもあるぐらいです。そのくらい対照的な感覚のギャップがありますが、後者のほうが治療としては質が高いのではないかと私は考えています。

『まんが やってみたくなるオープンダイアローグ』 解説 斎藤環 P114-115


「いつか死ぬ人生をなぜ生きるのか」――私のようにずっと考えてきたという人もいれば、ここで話を聞いて離れられなくなったという人もいた。考えたってわかりっこないこの問題に、どうしてこれほど一生懸命になるのかがまるでわからない人がほとんどかもしれないが、そうならざるを得ない人たちがいるのだ。いつの時代も、どんなときでも、そういう人はいる。

『なぜ人はカルトに惹かれるのか ――脱会支援の現場から』 瓜生崇 P32-33 

 特に戸別訪問は厳しい断りが続くと「信仰している仲間とそうでない人の境界線」を否応なしに自覚することとなり、相手から見下され、冷たく扱われることで生じるプライドの毀損を「あの人たちは真実を知らない可哀想な人たち」という壁を作ることで防ごうとする。そして、厳しい活動を共に乗り越えてきた仲間たちとの団結は、ますます深まる。
 よく伝統教団の宗教者向け研修会などで講義をすると、エホバの証人など戸別訪問で布教活動をする人たちを、伝統教団の人たちが、冷ややかに見下していると感じることがあった。私自身も信者として活動していたときだけでなく、脱会したあとにも、こうした目で見られることにずいぶん苦しんだし、脱会者の相談を多く受ける中で、多くの人たちが同じ思いに苦しんでいることもわかった。
 問題を抱えた宗教教団の活動というのはどこか滑稽なものであり、その滑稽さや欺瞞性を明らかにすることは、カルト対策の重要な一面であることは間違いない。しかし教団の虚構性ばかりを強調するあまり、信者たちの歩みを、論者が高みに立ってあざ笑うかのようなやり方を見ることもある。それは信者に気づきを与えるどころか、かえって信者が教団にますます依存する要因になったり、あるいは脱会後の回復の障害となる可能性があることも、知っておいてほしい。

『なぜ人はカルトに惹かれるのか ――脱会支援の現場から』 瓜生崇 P52-53

 私はマインド・コントロールのテクニックは、人を騙そうという悪意の上にしか成立しないと思っていたのだが、実際にはそのテクニックによって信念や信仰を得た人間が、自分がされた同じやり方で布教することで、自覚も悪意もないままでマインド・コントロールの伝播が行われる。だからマインド・コントロールをしているという自覚も、されているという自覚も生じないのである。

『なぜ人はカルトに惹かれるのか ――脱会支援の現場から』 瓜生崇 P65

 それは例えば勧誘対象に対して手取り足取り大学のことを教えたり、手作りの食事をごちそうしたり、毎回話の感想を書かせたり、たくさん褒めたり、合宿で寝食を共にしたり、なるべく多くの時間を信者と一緒に過ごすようにしたり、みんなの前で決意表明をさせたり……。こんなありきたりで当たり前のことで、人間の信念がそう簡単にひっくり返るものか、としか思えないようなことが、マインド・コントロールのテクニックの正体なのだ。だからやっているほうも受けているほうもその自覚は少しもない。そしてこの本(=西田公昭『マインド・コントロールとは何か』)は、こうした私たちがごく日常で受けている心理的な力を、一つの明確な方向性を持って不断にかつ連続的に与え続けることで、さしたる根拠のない非合理な教理が、いつしか真実として認識されてしまうことを示していた。
 「マインド・コントロール」というと、あたかも信者が「思考停止」してしまい、何も考えずに教理を盲信しているかのように思われがちであるが、これは半分正しいし半分間違っている。詳しくは第三章で触れるが、統一教会にしてもオウム真理教にしても、私が脱会後にこうした団体の信者や元信者に会ったときの印象を言えば、普通の人たちよりもずっと人生や自分の存在意義や、宗教的真実について考えてきた人たちなのである。そして入信後もそれぞれが真剣に信仰について考えてきたので、思考が停止していると言われても本人たちはピンとこないだろう。この場合の「思考停止」というのは、「教祖や教団は真実である」ということが思考の前提となり、その前提を疑うことができないことを言うのであって、思考そのものが奪われてしまうのではない。

『なぜ人はカルトに惹かれるのか ――脱会支援の現場から』 瓜生崇 P65-66

 つまり当然と思っていた事柄である「真実の教団」という「パラダイム」の上で親鸞会での事象を捉えていた自分が、この教団はおかしいのではないか、といういくつかの出来事にあっても、「自分にはわからないが高森会長の深い御心に違いない」といった考え方で「真実の教団」という「パラダイム」をあくまで堅持した上で、矛盾が生じないような思考を展開しようとする。
 しかし「真実の教団」という「パラダイム」を疑うに十分な出来事があまりに積み重なると、その「パラダイム」そのものの是非を初めて疑うようになる。そうして「真実の教団とは言えないのではないか」という、新しい「パラダイム」にシフトしたときに、それまで「真実の教団」だという古い「パラダイム」に矛盾が生じないよう無理に捉えていた出来事が、すべてなんの矛盾もなくスッキリと説明できるようになる。クーンはあくまで、パラダイムは自然科学を説明するための概念としていたが、私はこの極めて個人的な思考の転換を眺めてみたときに、クーンの「パラダイム・シフト」という言葉を、思い出さずにはいられなかったのだ。
 このときに自分の中に起きた感覚を説明するのは難しい。単純に自分のいる教団を否定できた、ということではないのだ。教団の真実性が絶対的な思考の前提として存在していた私の中に、初めてそれについての相対的な視点を獲得した、と言ったらいいのかもしれない。脱会するときの信者の心境は、だいたいどこかでこの「相対化」という視点をたどることになると思う。そうなって初めて「この教団を続けることが是か否か」という論点を、自分の中に作ることができるのだ。

『なぜ人はカルトに惹かれるのか ――脱会支援の現場から』 瓜生崇 P69-70

 脱会支援においては相手の年齢や環境にもよるが、脱会者を「成人した一人前の人間」として扱うことが極めて大事であると思う。外から見たら宗教に狂っているようにしか見えなかったかもしれないが、真剣に人生を生きて厳しい信仰上の壁を幾度も乗り越えて、その辛い厳しい歩みを最終的には捨てる覚悟で脱会したのである。今思ってもあれは並大抵の決断ではない。そのときの信者の思いは深い敗北感である。(中略)
 それを取り違えて、信者に対して「お前は間違っていて、私たちが正しかった」なんて思わないでほしい。私の親は幸いにそういう態度に出ることはなかったが、脱会後に様々な人に会う過程で、「お前は間違っていて、私たちが正しかった」という態度を取られることが多くあった。そんな態度を取りながら、その上で優しいのである。この優しさは本当に辛いことだった。正しい人間が誤った人間を善導しようという優しさほど残酷なものはない。どうか、脱会者という存在に向き合うことがあったとしたら、その人が歩んできた人生を尊重して、一人の分別ある大人として扱ってほしい。脱会者はボロボロのか弱い存在であるし、助けを求めてもいるが、自分の過ちは自分が一番よくわかっているのだから。

『なぜ人はカルトに惹かれるのか ――脱会支援の現場から』 瓜生崇 P75-76

 この章を書いたのは、人が真実を求めて真実に迷っていく思いを知ってほしかったからだ。脱会支援をしていると、「こんな宗教に入らないでも、普通に楽しんで生きていればいいじゃないか」という思いを、周囲の人が信者にぶつけるシーンをたくさん見てきた。そのたびに私は、とてもやるせない気持ちになるのだ。
 確かに、生まれて成長して、一日一日を大切に生きて、楽しんだり喜んだり悲しんだり苦しんだりして、年をとって死んでいく。ほとんどの人はその当たり前の人生を受け入れて生きていく。それのどこが悪いのだと普通は思うだろう。しかし、どうしてもそれに納得して生きていけない人間がいるのである。「その人生になんの意味があるのだ」と命の底から叫ばざるを得ない人たちがいるのである。宗教とは、本来そうした人間の持っている根源的な問いをあぶり出すものだ。

『なぜ人はカルトに惹かれるのか ――脱会支援の現場から』 瓜生崇 P81

 私が感じた入信者の傾向というのはただ一つで、彼らは人間の根源的な救済や教えを求める「核」を持っているというだけだ。そういう人が自ら求めて入っていくというのもあるし、カルトが勧誘の中で選んで、「目覚めさせる」こともあるだろうと思っている。それは表面に出ている場合もあるし、本人すらも気づかないような、内心の深いところに隠されていることもあるだろう。
 カルトに限らず宗教というのは、フィクションと現実の区別ではなく、そういう「核」をあぶり出すのだと思う。一度あぶり出されてしまうとそれを無視して生きることができない。教団がインチキであったとしても、そこで気づかされた人生の根本問題は本物であったりする。だからこそ、教団をやめて脱会者となっても、少なくない人が求道を続けるのだ。私はそういう人たちをたくさん見てきた。

『なぜ人はカルトに惹かれるのか ――脱会支援の現場から』 瓜生崇 P93-94

 私たちは、正しさをつかみたい。なぜなら、考えれば考えるほど人生で何が正しいのかがわからなくなるからだ。人生は決断と後悔の連続だが、何が後悔のない選択であるのかは誰一人わからない。別の道を歩んでいればと思うこともあるが、別の道を歩んだ結果を知ることもまたできない。真っ暗な道を手探りで歩いているようなものだ。
 そんなときに「正しさ」をつかみたい誘惑に私たちはとらわれる。明確で白黒ハッキリした説明に惹かれる。しかし人生で起こることはだいたい複雑に絡み合っていて、こうすれば必ずこうなる、という解決策が存在することは稀である。その時々で必死に考えて試行錯誤しつつ、三歩進んで二歩戻るような歩みでしか現実は生きられない。しかし、複雑なものを複雑なままに受け入れることほど苦しいことはない。真面目な人ほど一度しかない人生に間違いのない真理や正義を見つけて、全力でそれに向かって進みたいという衝動を抑えることができない。
 カルトは多くの場合、あなたが生きているのはこのためだ、という明確な答えを与える。あなたの人生はこういう意味があるのだ、あなたの今まで生きてきたのはこの教えに遇うためだったのだ、そして、今後はここに向かって歩んだらいいのだ、と。こうした疑問に答えを与えることで、その疑問に向き合う苦しみや迷いを消し去ってくれる。「もう迷わなくていい」のだ。これを私は「真理への依存」とか「正しさへの依存」と名付けている。

『なぜ人はカルトに惹かれるのか ――脱会支援の現場から』 瓜生崇 P106-107

 それが明らかに非合理な指示であったとしても、自分にはわからない深遠な願いがそこにあるのだと思えばいいのだ。オウム真理教でもムハームドラーという論理が使われた。これはグルである麻原が俗物のふりをして不条理な指示を出し、弟子が本当に帰依できているかを試すというもので、地下鉄にサリンを撒けという、正気ならとうてい受け入れられない指示であっても「これはムハームドラーだ」と自らに言いきかせて、実行犯はその指示に従った。それによって自分にどんな結果が返ってこようとも、自分の判断を超えた「尊師の判断」によって、それに宗教的な意味づけがされるのである。そうやって「迷って生きていく自由」を放棄することで、人間は実に心地よく生きることができるのだ。

『なぜ人はカルトに惹かれるのか ――脱会支援の現場から』 瓜生崇 P108-109

 いわゆる知識人と言われる人が外からカルト問題を語るときに、私がいつも怖さを感じるのは、人間の理性と思考の力を過信しているように見えることだ。なんでそんなことがわからなかったのだ、ちゃんと考えれば違うってわかるじゃないか、というまなざしをひしひしと感じる。でもいくらなんでもその考えは無邪気すぎやしないか。あなたが考えているようなことを、「中の人」もまた考えてきたとは思わないのか。あなたと同じ脳みそを持った人間が真剣に求めているんだから。
 カルトに入る人は人間の理性を信じられなかったのではなく、人一倍理性の力を信頼してきた人たちだと思う。その「理性の溶炉」によってどうやっても溶かしえない、黒々とした何かを感じたときに、理性を超える何かを求めて「超越的な真理」に依存していったのだ。

『なぜ人はカルトに惹かれるのか ――脱会支援の現場から』 瓜生崇 P146-147

 私自身も様々な研修会などで話をするときに、なんで彼らのような普通の思考力を持った人間がこんな宗教に迷ったんですか、といった質問を受けることがある。そこにはこうした宗教に迷った人に対して、思考を放棄した人というレッテルを貼って、一段低く見るまなざしを感じることもある。しかし彼らは思考を放棄したのではなく、普通の人がスルーして考えることがなかった問題、あるいは考える必要のなかった問題に突き当たった人たちなのだと思ってほしい。それが、次章から述べる脱会支援の第一歩となる。

『なぜ人はカルトに惹かれるのか ――脱会支援の現場から』 瓜生崇 P148-149

 脱会支援の現場もこれ(※この前に、菊池寛『恩讐の彼方に』の引用が示されている)に似ている。自分の家族がカルトに入信していたことに気づいて、専門家に相談し、手応えがあるのかないのかもわからないまま、地道な働きかけを続ける。それは真っ暗なトンネルを、槌で石を穿つようにして掘り進む歩みである。自分がどこまで掘り進んだのかもわからないし、ゴールが近いのかも遠いのかもわからない。ときには何年もそれが続く。最初のうちは親戚などが協力してくれることもあるが、長期間に及ぶと周囲の人も関心をなくしていく。それでもあきらめずに働きかけを続けていると、なんの前兆もなく信者が「ふと」やめて帰ってきたりするのだ。そんなケースを今までたくさん見てきた。(P154-155)

『なぜ人はカルトに惹かれるのか ――脱会支援の現場から』 瓜生崇 P154-155

 しかしそれでも、私はここで正しさと間違いという線を、カルトと私の間に引くことよりも、その中間で迷い続けながら支援することが、自分のやり方だと思っているのだ。というのはカルトは「真理を実践する私たちは常に正しく、反対する人々は邪悪でレベルの低い人間」という論理で「敵と味方」「善と悪」「正と邪」を明確に分けて考える。自らの正しさに依存して、その正しさを疑わないのが「カルト」の根本的な問題性であるなら、私たちが同じ論理で自分たちを「善であり正義」であると思い、カルトを「絶対悪であり、虚偽」だと確信を持って脱会支援をすることは、結局彼らのやっていることの、あわせ鏡に過ぎないのではないだろうか。
 ただし、この論理は非常に危ない面もある。あまりにこうした論理でカルトを相対化すると、金銭被害や人権侵害などの反社会性や、マインド・コントロールによって信念が書き換えられてしまうことへの危機感が希薄になる可能性もあり、カルトの立場を擁護することにもつながりかねないからだ。だからその教団で「どんなことが起こりうるのか」については十分に学ぶ必要がある。その上で相談者は「どうしてその教団に入っていることが問題なのか」「どうして脱会を支援すべきなのか」の安易な答えを求めずに真剣に悩んで、その問いを解決済みにしないで信者に接し続けてほしいのだ。
 そして「どうしてその教団に入っていることが問題なのか」を相談者と支援者が共通の課題として持ち続けることは、信者がどうしてその教団に入ることになったのか、その教団で何を求めて何を救いとしたのかを考えることにつながる。「あんな理解不可能な教え、騙されて洗脳されて信じ込まされたんだ」と決めつけてしまえば、それで終わってしまうのだ。脱会支援においては、「教団がいかにおかしいか」を知ることも大切だが、信者が「どうしてその教えを求めずにはおれなかったのか」を考えることも同じくらい大事なのである。

『なぜ人はカルトに惹かれるのか ――脱会支援の現場から』 瓜生崇 P161-162

 結局のところは、答えのない問いに非合理な信念をかぶせて、解決したつもりになっている。しかもその信念はこちらが正しく、相手は間違っていると思っているという点で、私たちも信者もある意味「どっちもどっち」なのだ。こうした「正しさと正しさのぶつかり合い」において、こちらの「正しさ」をもって相手の「正しさ」を説き伏せようとしてもほぼ不可能である。だから、脱会支援の最初にやらなければならないのは、私自身が「正しい」と思っている人生観をきちんと疑うことである。
 以前にスクールカウンセラーをしている友人が言っていた言葉が忘れられない。不登校の問題について話していたときに、彼は「学校に行けないというのは人間としてまっとうで、極めて正常なことだ」と言ったのだ。たくさんの個性のある人たちが同じ空間で画一的な教育を受け、集団で行動することを要求される学校は、「行けなくなって当たり前」だと言う。そして学校に行けない子供に「学校に行かなければ生きていけないぞ」と脅すのはやめろと厳重注意された。そんなことは本人も悩んでいることであって、こちらから言うことではない。逆に「学校に行かなくても人間は生きていける」ということを伝えてあげてほしいと。
(中略)
 だから、本当はどちらがいいかなんてわからないのである。わからないという場所に立ったときにできることは、学校に行くという「正解」を押しつけることではなく、本当に学校に行かなければならないのか、どうしても行けないなら行けないなりの人生を歩む方法を、本人と一緒に悩んで考えることだったのだ。不登校を克服した姿は必ずしも登校ではない。同じように、脱会支援というのは「脱会」という「正解」を押しつける場ではない。

『なぜ人はカルトに惹かれるのか ――脱会支援の現場から』 瓜生崇 P165-166

 相談者や支援者にとって最も大事なのは信者が脱会するか否かではなく、信者との信頼関係を継続的に構築できるかという一点であり、具体的に言えば信者がその信仰生活の中において何らかのSOSを放ったときに、それを家族が受け止めて対処できうる関係性にあるか、ということだ。だから信者の所属している教団が反社会的とまでは言えない集団であり、信者とのコミュニケーションが維持され、なおかつ信者がその教団でいきいきと生活しているのであれば、あえて脱会を目指さないという支援の方向性もありえるのである。

『なぜ人はカルトに惹かれるのか ――脱会支援の現場から』 瓜生崇 P167

 信者と対話をするとあまりに会話がすれ違うので、信者は洗脳されて思考停止していると感じてしまうのは無理もないのだが、すべてが思考停止しているわけではない。それどころか教団に勧誘されて入信する過程でも、信者になって活動しているときでも、様々なことに悩んで疑問を感じて考えている。そんな信者に「自分の頭で考えろ!」と言ったところで、「私は私なりに悩んで考えているんだよ!」という思いになるだろう。
 ならどこが「思考停止」しているのか。第一章の「パラダイム・シフト」で説明したが、多くは「教団、あるいは教祖の教えは正しい」というところが「思考停止」の部分であり、その前提の上で他のことは全力で考えている。だから例えば理不尽な指示を教団から受けたときには「こんな理不尽な指示をする、教祖の教えはおかしいのではないだろうか」と考えるように普通は思えるが、そうではなく「こんな理不尽な指示が間違いのなり教祖から出るはずがない、伝達ミスか、あるいは誰かが教祖を騙ってありもしない指示を出したのではないか」と考える。それが「間違いなく教祖の指示だ」と明らかになったら「明らかに理不尽だが、(教祖は正しいのだから)そこには何か深い意味や理由があるに違いない」と考える。この場合「教祖は正しい」という前提のみが固定化されて、その上で「全力で考える」のだ。だから信者は、自分が思考停止しているとは全く思えないのである。だって前提以外のところでは一生懸命考えているのだから。

『なぜ人はカルトに惹かれるのか ――脱会支援の現場から』 瓜生崇 P174-175

 でも「教祖や教えが正しい」という前提は疑ってないんでしょう? といわれそうだが、実は「思考停止」というのは「教祖や教えが正しい」という前提を守るための自己説得とも言えるもので、自己説得とは実は考えている姿でもある。つまり、「思考停止」というのは、実際には停止どころかゆらいでいる姿そのものなのだ。例えばカルトの信者が、その教団の発行物や機関誌以外は読まないで、他の情報には見向きもしないのは、教団の指示がそうだからというだけではない。スマホ一台あれば、誰にも知られずいくらでも教団の情報を入手できるのに、それでもしないのは、自分自身がゆらぐ危うい存在である自覚があるのだ。崖っぷちに立っている人が、怖くて下を覗き込めないのと同じである。
 だから信者が「目つきがおかしい洗脳された集団」にたとえ見えたとしても、その内実は決してそうではないのだ。悩み、考え、ときには教団の矛盾や教義への疑念を持ちながら、必死で信仰を維持しているのが実態である。そして都合の悪い情報に目隠しをして懸命に活動をしているのは、強固な信念を持っているからではない。そうしなければ信念を保つことができないからだ。
 ならばどうして家族などが接しても頑なな態度を崩さず、思考を停止しているかのように振る舞うのだろうか。それは家族が「外の人間」であり、「教祖や教えが正しい」という前提を共有していない人たちとの間では、話してもわかってもらえないと思っているからだ。だから教団の外から信者を見ると、あたかも何かに取り憑かれたような金太郎飴の集団に見えるが、教団の中に入ると実に多彩で、個性豊かな信者たちが教団を批判して笑い合っていたりもする。
 つまり私たちが「外」に立ってしまうから、信者が教義や教祖について疑念を持ったときに、それを私たちに話せないということだ。私たちは信者の信仰について強い反対や疑問をぶつけることが、信者の信仰を崩すとつい思ってしまうのだが、それをすると信者が信仰のゆらぎを自覚したときに相談相手としては選ばれない。信者は私たちに相談しても「理解してもらえない」と思うから、教団の中の人に相談せざるを得ない。そうなるとせっかく生じた疑念も教団内の人たちが向き合って答えてくれるので、教団の論理によって解消してしまうのだ。しかし、だからといって私たちは信者の信仰的立場を支持して「内」に立つこともできない。
 じゃあどうしたらいいのか。大事なのは、私たちがちゃんと迷う、ということだ。ゆらぐと言ってもいい。信者の教団はカルトであり間違っていて、脱会することが正しい、という強い信念で向き合ったら、結局相手も「私たちの教えは正しい」という信念を強くするだけになる。
 信者が求めている教えを聞くときにしてしまいがちなのが、最初から矛盾を論破しようとか批判しようと思って臨む態度だ。布教をしてきた信者は様々な人に教えを話してきた経験があるので、そういうこちらの態度は敏感に感じ取る。「正しい私がインチキ教団の教義を論破してやる」という立場で信者にぶつかっても何も解決しない。脱会の最終段階においてはそれが有効になることもあるが、最初からその態度で向き合えば、相手はもっと頑なになって、もっと「正しく」なるだけである。(中略)
 大事なことなので何度も言うが、必要なのは私たちがちゃんと迷ってゆらぐことなのだ。真剣に聞こうとすれば相手も真剣に話してくれる。理解したいという思いで聞けば理解してもらおうと思って向き合ってくれる。自分が当たり前に受け入れていた人生観が、揺さぶられるくらいに向き合わなければ対話は成立しない。それはカルトの論理にこちらが立つということではない。「真理」を求めずにはおれない人間の思いを理解するということだ。そうして私がちゃんとゆらぐことで、ようやく相手もゆらぐ。信者は自分の言葉が私たちをゆるがしていると気づいたときに、私たちの存在によってゆらぐことができる。論破して気づかせるのではなく、信者本人がゆらげるための土台になるのが私たちの役目である。あなたの目の前の信者を洗脳されたロボットとして扱うのではなく、悩んで迷ってきた一人の人間として信頼するということだ。

『なぜ人はカルトに惹かれるのか ――脱会支援の現場から』 瓜生崇 P176-179

 しかし書くのは簡単だが、実際は「言うは易く行うは難し」でそう簡単にはいかないのである。こちらからしてみれば、極悪インチキ集団の矛盾を暴いてどう足を洗わせるかという思いから私たちもそう簡単に脱却はできないし、信者は信仰を守るために平気でウソをつくこともあるし、教団の公式見解みたいな話をテープレコーダーのように繰り返すこともあるだろう。内と外の境界線は万里の長城のように堅牢でつけ入るスキがない。一体どうしてこんなふうになってしまったのかと途方に暮れるばかりである。
(中略)
 カルトの問題は「正しさの依存」あるいは「真理への依存」だと以前に書いた。結果として「カルトサーフィン」という現象が起きる。これはサーファーが次から次へと波を乗り換えるように、「真実の教え」を探して入信と脱会を繰り返すようになるのだ。私もこうした人をたくさん見てきた。
 「教団は間違っているから脱会させる」という考えで、信者の信念を教団批判の情報で押し流し、脱会に導くとこうなりやすい。脱会はさせるのではなく、信者が自ら選択するものである。そしてそれを支援するのはカウンセラーではなく、相談者である家族や友人である。カウンセラーは信者と直接に向き合うこともあるが、その主たる役目は信者の家族や友人を支えて、脱会支援を助言する立場である。
 ならば家族や友人はどう脱会を支援するのか。それは、信者が悩んで考えることを支援するのだ。具体的には、あなたは脱会しても大丈夫だ、何があっても決して見捨てないし、戻ってこられる場所を用意し続けるから心配するな、という思いを常に発信し続ける。「脱会しろ」ではなく「脱会しても大丈夫」である。信者にとって教団の教義を否定して脱会することは、ビルの屋上から飛び降りるくらいの勇気がいる。私たちはつい信者を信仰というビルから突き落としたくなるが、それをしてもあまりよい結果にはならない。簡単には飛び降りられない信者の思いに寄り添いつつ、勇気を持って飛び降りられるように、ビルの下でマットを持って呼び続け待ち続けるほうがいい。
 当然時間がかかる。場合によっては何年も、いや十年以上も待ち続けることになる。ときには絶望もするし、あきらめかけるときもある。だからこそ、カウンセラーと定期的に面談することが大きな力になる。そして自助グループがある場合はそこに参加するのも有益である。

『なぜ人はカルトに惹かれるのか ――脱会支援の現場から』 瓜生崇 P179-181

 信者から教団や教義のことを聞くときは、真剣勝負で数時間話すよりも、短いものを絶やさず重ねていくほうがいい結果になることが多い。そして自分がこの教えで本当に救われるのか、という意識を持って聞いてほしい。そうやって話をしていくと、どうしてこの教義が成り立つのか、なぜこう言えるのかという疑問が出てくる。論破するのではなく、そこを本当に知りたいと思って聞いていく。すると信者の中で当然の真実だと思っていた教義上の前提が、実は根拠のない思い込みだったのではないか、という気づきが生まれる。
 教義が教団の中で語られるときには、得てして内輪でしか通用しない、特別な定義を持った言葉を多用して、その閉じた言葉世界の中で宗教的真理が説明されることが多い。実はカルトに限らず宗教は、大なり小なりそういう言葉の世界を持っている。それは言葉の城壁によって外界から守られた、仲間だけの居心地のいい世界である。
 しかしそうなると教義に根本的な矛盾があっても、教団の言葉世界でしか表現できない教義は、それそのものを疑うための言葉を失うので矛盾に気づけなくなる。なのでその言葉世界の中にいる信者にとっては、矛盾だらけのはずの教義が論理的に完璧に感じられるのだ。
 これが信者獲得のために布教する際にはあまり問題になることはない。なぜなら教団の言葉世界に入れなかった人は、そもそも信者にならないからだ。逆に信者は「世間の人には理解できないかもしれないけど、私たちと一緒にしばらく聞いていればわかるようになる」と、教義的矛盾をその言葉世界に溶かすことで解決させようとする。信者が親に対して教義の説明をあきらめてしまうのは、この言葉世界に入れないものはいくら話してもわからないということを、感覚としてなんとなくつかんでいるからだ。
 しかしこちらはあきらめずにじっと聞き続ける。そしてわからない言葉があればそれを、矛盾を感じたらそこを聞いてみる。間違いを指摘するのではなく、聞きたいという気持ちを伝えて考えてもらう。教義や教団のおかしさは私たちが発見して信者に伝えるのではない。教団で浴びるように教えを聞いている信者が一番よく知っているはずなのだから、信者を信頼して考えてもらうのだ。そこから信者は教団の言葉世界から一歩出るきっかけを得る。第一章で書いた「パラダイム・シフト」が起こる土壌ができるのだ。
 これは本当に地道で、時間のかかる歩みである。思うようにいかないことが多いどころか、まともな会話になることのほうが少ないくらいだと思う。でも信者を信頼して一緒に歩んでほしい。カルトに騙されておかしくなっているから助けてやるという哀れみよりも、真剣に真実を求めるがゆえに迷っている信者に共感し、地獄までも共に歩もうという思いをどこかに残してほしい。
 脱会支援をしていると、相談者には間違った教団に入って迷っている信者を、正しく社会的な常識に生きる私たちの側に戻したいという思いがどこかにある。その思いは十年以上この問題に取り組んできた私でもなかなか消えない。しかし、本当は信者ほど「正しい」存在はいないのだ。もっと正確に言うと、「信者ほど正しくなっている存在はない」のだ。そして私たちもまた信者と同様に「正しくなっている存在」になっていないだろうか。
 脱会は迷っている信者を正しさに引き戻すことではない。正しさに依存して真実を抱きしめて生きている信者が、それを捨てて迷いに帰ることが脱会である。信者は迷い続けて生きることが怖いから脱会できないのだ。だから私たちが送るメッセージは「正しいのはこちらだ」ではなく、「迷ってもいい」である。迷うことは大事であり、迷っても生きていけると言い続けるのだ。そのためには信者の言葉に共感し、間違いないと思っていたこちら側の正しさがゆらぐことが何より大切なのだ。

『なぜ人はカルトに惹かれるのか ――脱会支援の現場から』 瓜生崇 P188-191


 頭の中でがちゃがちゃと鳴り続ける音、それとの折り合いの付け方を兄が知らなかったとしたら、本当に気の毒だったと思う。兄に伝えてあげればよかった。はっきりと言ってあげればよかった。苦しいと教えてほしかった。話し合いをすればよかった。心が落ち着かないとき、頭の中が文字で満たされてしまうとき、叫ぶのではなく、飲み込み、そして緩やかに吐きだしていくのだと兄に伝えることができていれば、どれだけ兄に平安がもたらされただろう。怒るのではなく、流す。壊すのではなく、遠ざける。兄がそれを知っていたら、私が伝えられていたらと後悔することばかりだ。

『家族』 村井理子 P183-184

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