(抜き書き)佐伯一麦×若松英輔
毎日新聞(2015年6月27日)に掲載。ノートから転記。
佐伯 文学の言葉は、何かを棄損された経験から出てくる。(中略)なんであれ、棄損された経験があると日常が奇跡になる。(中略)文学は、言葉で表現できない無力感と「でも、言葉で表現する」という矛盾から始まる。そもそも、一人の人間が生きて死ぬとは、一冊の本みたいなものです。
若松 それと、文学は本性的に辺境、田舎から生まれるものではないでしょうか?
佐伯 言い換えれば、たとえ東京に生まれ育っても、辺境にいるような心性の持ち主が書くものでしょう。
若松 文学とは何かをより抽象的に言えば、創造であるよりも想起すること。優れた文学者は自分が無から有を作り出せないと熟知している。そうした人は神を語らずとも、たとえ否定しても、人間と人間を超えるものの関係を表す。いわば文学はどこまでも個のものでありながら共同体としても存在する。今のような危機の時代に、人間は本来、食べ物のように文学を「食べる」はずだと思います。栄養が足りなくてもすぐ死にませんが、体はぼろぼろになる。同様に貧しい言葉ばかりだと人は崩れる。
佐伯 『三田文学』の名編集者だった山川方夫によれば、「文学とはひとりにならない努力をひとりでするもの」。でも今は、ひとりになる努力をひとりでする人が多い気がします。読書は孤独な営みではありません。「こんなこと思ってるやつがいる」「こんな描写がある」と他者を受け入れ、すでに死者であることが多い作者とも触れ合う。
佐伯 あらためて、文学は記憶ではないかと思います。記憶は知識と違う。意識の表面から沈んだ知識が、深層で記憶の一部となる。小説を書くとは記憶を想起すること。文学は、自分が好き勝手できない喪われたものを、もう一度聖性を宿して現出させる。時間も書き手の自由にはならない。文学には本来、不自由なものの手応えがあるんじゃないでしょうか。