子どもの社会は時に暖かく時に残酷
現在小学5年生になる娘は1年生の頃から不登校である。不登校のきっかけは上級生の「おばかさんね」だった。その言葉は、上級生のイライラからきた何気ない言葉であったが、1年生、新しい環境に慣れようといっぱいいっぱいだった娘のはりつめていた糸を切る言葉だった。
でもその上級生は娘をよく助けてもくれていた。とにかく、うちのよく遊びにきていたし、彼女は友だちをたくさん作る名人だったので、娘はお兄さんお姉さんのなかで、結構揉まれながら、学校の外側に独自のネットワークを作っていった。
一方学校へいくチャレンジも、し続けていた。2年生の時、なかなか教室に入れない娘を不思議に思ったクラスメイトが「なんで学校にこないの?」というと、1年生の時一緒のクラスだったやんちゃな男子が「病気してて入院していたんだよ」という、非常にわかりやすい、優しい、嘘をついて、娘を助けてくれた。
3年生になり学校に行き始めた娘は、教室には入れるようになったけど、教室で言葉を発することが一切できなくなっていた。それを、事情を知らない男子が「ちゃんとやれよー」と、ごもっとも!な言葉を発し、でもそれは娘には、残酷な言葉で、娘は教室に隅で泣いたそうだ。滅多に人の前で泣くことなんかしない実は芯の強い娘からその話を聞いた時、母である私は、子どもの社会は暖かく時に残酷だが、教室で泣けた娘の成長をひそかに喜んだりもしていた。
そしてすっかりたくましい不登校児の5年生になった娘が今日。書道教室にいって帰ってきて真っ先に私のところで発した言葉は「ママ、聞いて聞いて、生きている価値がないっていわれた!」だった。えーっと、書道教室でどういうシチュエーションでそうなるのか??だったので、聞いてみたら、非常に些細なことで娘にはなんの非もないやりとりのなかで、しかも下級生から言われたそうな。
これがまだ弱々しい頃の娘なら折れていただろう。でも、娘は「そういうことはいったらだめだよ」とちゃーんと下級生男子にお説教してきたらしい。
実にたくましくなったなぁ。という思いと同時に、「生きている価値がない」っていう言葉を下級生男子たちはどこでおぼえてきちゃうのかも、ものすごく気になってしまう私。
それは、たぶん、たぶんだけど、大人からだったりするのかもしれないとおもうと、ちょっと切なくなる。けど、その言葉を発した子が同級生からきいていたとしても、たぶん、大元は大人なんだろうな、ともおもう私。
そういうなかで、今を生きる子どもたちって、めちゃくちゃ戦って生きてるんだよなー。特に繊細なお子さんとか、うちの子みたいに変にアンテナ高い子とかはしんどいよねー。
でも、いっぽうで、子どもが大人の監視や管理からフリーなところで遊んでいた時代もあり、そこではきっと、やっぱり子どもって暖かいな、でも残酷だなって、両方あったんだろうなとも思うし、自分もそうだったなーとおもう。
ただ、昔の方が、大人に余裕があったのかなー。どうなんだろう。少なくとも大人同士もいろいろもめていたりもしつつ、繋がりは、今よりはあって、それはなんとなく子どもも感じていてっていう意味の安心感は昔を生きていた子どものほうがあったのかなー。
とにもかくにも、「生きている価値がない」と言われた娘が、ちゃんと説教してきたことに、わずかな、いや、大きな希望を感じた今日でした。