アメリカ在住10年目:語学の悩み
ここ数年、語学のことで悩むことが増えました。日本語も英語も中途半端だと感じる瞬間が多いのです。日本語は、たまに日本人の知り合いや友人と話すくらいで、普段あまり使う機会がありません。日常生活のほとんどが英語で完結してしまうので、意識して日本語を使おうとしないと、だんだんと「日本語を話している感覚」が薄れていくのを感じます。
だからこそ、このブログを書くことが最近とても楽しいのです。勝手に架空の友達とおしゃべりしているような気分になれるからかもしれません。そして、こんな私のブログを読んでくださる方々には本当に感謝しています。たとえ直接のやり取りがなくても、「誰かが読んでくれて共感してくれてるかも?」と思えるだけで、書くことが楽しくなります。
アメリカに来て10年が経ちました。10年も住んでいるのに、いまだに「ネイティブレベル」と自信を持って言えない自分がいます。
英語で日常生活を送ることは問題ないのですが、言葉がスムーズに出てこない瞬間があると、つい自分の語学力を疑ってしまいます。特に専門的な話題や職場での会話では、簡単な言葉でもパッと出てこないときがあり、もどかしさを感じます。
さらに、日本語に関してはもっと深刻かもしれません。日本語で話しているときでさえ、英語が混ざってしまうことが多いのです。日本人としてはかなり恥ずかしいことで、そういう場面があるたびに落ち込んでしまいます。
語学について悩むとき、他の人と比較してしまうことがよくあります。同じ時期にアメリカに来た人がネイティブのように話している姿を見たり、SNSで「英語が堪能な日本人」として活躍している人を見ると、「どうして私はこれだけしかできないんだろう」と落ち込むことがあります。
しかし最近、「人と比べることに何の意味があるんだろう」と考えるようになりました。よくよく考えれば、語学を学ぶ環境や状況は人それぞれ違います。年齢や職業、生活スタイル、さらにはその人の得意不得意によっても習得のスピードは変わるはずです。それなのに、私は他人の結果だけを見て、自分を責めてしまうことが多かったのです。
さらに最近思うのは、語学力というのは「どれだけスラスラと話せるか」だけが重要なのではないということです。言葉そのものの流暢さよりも、「何を話しているのか」「どんな内容を伝えられるのか」がもっと大事だと思うようになりました。
たとえば、語彙力が豊かで知識がある人は、たとえスピーチが多少たどたどしくても説得力があります。一方で、いくら流暢に話せても内容が浅ければ相手の心には残りません。そのため、私も「英語を上手に話す」ことばかりに固執するのではなく、もっと自分の教養や知識を増やしていきたいと思うようになりました。
その一方で、ストレスが溜まると、YouTubeやPodcast、インスタグラムなどを長時間つかってしまいます。なぜかそれらをただ流し聞きし続けることで、気持ちが落ち着くものの、逆に情報が多すぎて頭がパンクしているかもしれません。これが原因で集中力が低下し、結局何も身にならないことも多いと感じます。
今年の課題の一つは、こうしたスマホの使用頻度を減らし、もっと本を読んだり勉強する時間に充てることです。スマホを手に取るのは簡単ですが、その時間を有効活用できるかどうかは自分次第。情報を受け取るだけでなく、自分からアウトプットする時間を増やしたいと思っています。
日本語については、このブログを活用してもっとアウトプットすることで、少しでも感覚を取り戻せたらいいなと思います。そして、もっと日本人の方々との交流を深めたい。
「日本語も英語も中途半端」と嘆くのではなく、「両方できる自分」を誇りに思えるように、これからも努力を続けたいです。そして、言葉を通じて新しい繋がりや発見が増えることを楽しみにしています。