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命を感じる1日 ~烏骨鶏のひみちゃんと過ごした時間~

先日、じぶん旅では特別なワークショップを開催。「命をいただく」ことをテーマに、烏骨鶏の「ひみちゃん」と過ごし、その命を見届けるという時間。


ひみちゃんと過ごした午前中

午後からしか猟師さんが来られなかったので、この日の午前中は、ひみちゃんとふれ合う時間に。子どもたちが自由に遊んでいる場にひみちゃんが歩いてミミズを食べている。そんな時間を想像していたのですが、この日、少し遅れて到着した私は、予想を裏切られました。着いた時には、子どもの左手に抱えられ、すっぽり収まっている。嫌がる素振りもなく、落ち着いているのです。

烏骨鶏のひみちゃんは、子どもたちに驚くほど懐き、抱っこされたり撫でられたり。途中、ひみちゃんが抱っこされながらお昼寝する場面も。烏骨鶏や鳥で、こんなに懐くことがあるんだという驚きを与えてくれました。これは、来てくれたみなさんが、自然との距離感を自然に取れる感性を持っていたからかな。飼い主のまゆさんも驚いていました。その穏やかな姿は、参加者全員に愛おしさを感じさせてくれると共に、この先の未来を知っているオトナは、やるせない気持ち。


なぜひみちゃんの命をいただくのか

今回、ひみちゃんの命を奪うという選択に至った背景には、住宅街で飼うには難しい環境にあったことがあります。ひみちゃんは、飼い主のまゆさんが、ゴミを循環させるために卵から孵化させた子。しかし、オスであることがわかり、その鳴き声の問題からその場所で飼い続けることができなくなりました。過去、他の飼い主さんに託すこともありましたが、それもいずれは食用という形になってしまう。それであればと、今回はまゆさん自身で「命を見届ける」という選択をされたのです。


命を看取る瞬間

その場は、参加者さん、スタッフ、それぞれが、それぞれの思いを抱きながらひみちゃんを見送りました。私は、直前に参加者のお子さんからもらったハイチューを食べながら。隣の子は、さっき焼き上がった焼き芋を食べながら。それぞれ、その瞬間を見届けました。あのハイチューの匂いは、生きることと死ぬことが、日常の延長線上に繋がっていると強く感じさせられる場面でした。

ひみちゃんの命をいただくという行為そのものは、決して軽いものではありません。ただ、その後の時間は、再び普通の日常が始まります。子どもたちは遊びに戻り、オトナも日常に戻っていく。でも、心の中にはひみちゃんとの時間が確かに流れている。


それぞれの感じ方が生まれる場

このワークショップは、正解や結論を押し付けるものではありません。ひみちゃんの命を通じて、何を感じるのか、どんな風にその時間を受け止めるのかは、それぞれの自由。ただ静かに見守る子もいましたし、涙で目が充血している子も。動物が好きだからと一切見なかったおじちゃんもいれば、子ども時代によく見てたよと話すおっちゃんも。それぞれがそれぞれの感性で命と向き合う場がそこにはありました。


自然との距離感と、命について考え続けること

ひみちゃんがこの先の運命を理解していたのか、それとも分からないままだったのか、それは誰にもわかりません。でも、その命をいただき、そしてまた日常に戻る。命の重さを感じながらも、温かく穏やかな場でした。そして、終わった後の方が、いろんなことを考える場でした。それは今でも続いています。

補足

ひみちゃんの命を頂いたわけですが、味も硬さも、食用とは全く違いました。解体しながらも、例えば、鴨や猪と比べ物にならないくらい、各部位がくっついていて剥がれにくく、そして、硬さも噛みきれないほど。もちろん、それでも、ひみちゃんの命をいただくと決めたのですから、みんなで最後までいただきました。
ちょうど好き嫌いが出てきたという小学校2年生の女の子も、普段だったら固くて食べられないとペッしてしまうところを、ひみちゃんだからと、ずっと口に入れて噛んで最後まで頂いたと後で教えてくれました。

ただ、こうした硬さや、解体のしにくさを考えると、先人が、「たくさんのお肉を食べたい」と考え、良かれと思って大量生産できるシステムを考えたことも、理解できなくはなかったのです。

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