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「お布施してあげて!」

こんなことがあった。友達が知り合いを紹介してくれた。その地域には縁もゆかりもなかったから、とっても有難かったのだけど、グループメッセージでつなげてくれた時に、その友達は知り合いに「お布施してあげて!」とメッセージをした。

その時、私は「お、大丈夫かな?」と思った。自らが判断して誰かがお布施をするという選択をするのはわかる。お布施は誰かが促して「させる」ものではないと思っている。お布施で生きているとはいえ、望まぬお布施をさせる流れになるのは、できれば避けたい。

紹介してくれた人と会った。案の定、そのメッセージを受け取った時にイラッとしたそうだ。しかし、その後、「代わりに修行している人に、お布施するからいいか」と思ったそうで、私と実際に会った時には数食お布施して下さった。ドライブしている最中に、実直に感じたことを教えて下さって、それをきっかけに豊かな対話をすることができたから、今回は今回で、面白い出来事だったと思う。

わたしは、お布施という言葉を使って生きる中で、その言葉を「〜して当たり前」という流れから降ろしてあげたいとよく思う。わたしと会ったからといって当然お布施すべきとは思っていないし、お布施するか否かは相手次第だと思う。お布施に相場もなければ、さらにはこの場面で渡すのがベストという最適解もない。「お布施してあげて!」というメッセージは、やや感情のしこりを生みやすい言葉がけだったのでは?と思う。

ただ、もう一周回って考えると、友達の「お布施してあげて!」という言葉に対して、自分のスタンスを表明すればよかっただけだ。相手のお布施観と自分のお布施観の違いが明るみに出ただけで、誰を責めるわけでもない。対話のきっかけになる発言にむしろ感謝してる。

「お布施をしてあげて!」という言葉は他の人に所有を手放すことを促すものだけれど、これが気になるということは、所有の志向性が高い文化圏に生きているから、それが気になるのであって、使われる文脈が違ったら全然問題にもならないと思う。

もし世界が、分かち合うことがあまりに普通で、持っている人が持っていない人にて手放すことが美徳であるならば。「お布施してあげて!」という言葉を受けたら「え、いいの?ありがとう!」と返すかもしれない。

わたしたちが住まう世界はどのような特徴を持つ文化なのか。

それを考えるきっかけを頂き、とっても豊かな気持ちでいる。

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