【時間1】 時間環境問題へのアプローチ
こんにちは。
ピンと来た言葉と出会ったので、書きます。
内容は「時間」についてで、私たちは「時間環境問題」に取り組んだ方がいいのではないか?と考えています。
資本主義のその次を考えていく、小さなきっかけになると嬉しいです✨
お金を稼がないといけないという不安
私のここ最近の生活の中での意識は、時間の早さをゆるめること、に向いていました。あえて、何もしない時間を過ごし、したいことが湧いた時にその感覚を大事にそれに従う、というものです。結果、スケジュールはスカスカになりました。
その一方で「お金を稼がなければという強迫観念および不安」が出てきます。スケジュールを埋めたくなります。
意識的にその不安を受け入れようと努め、しだいに落ち着いてきました。そういう時間を切り口にしたライフスタイルの変化を体感していたのですが、その自分の探究を違う角度から捉える言葉に出会い、心が踊りました。それが「時間環境問題」という言葉です。
時間環境問題
国語の教科書に載っていた『ゾウの時間 ネズミの時間』(懐かしいよね、この本)の著者である生物学者の本川達雄さんの『生物学的文明論』より引用します。
みなさんは普段の生活の中でどのように感じていますか?
さらに続きます。
ということです。
私自身はこれを読んだ時にしっくりきました。時間と環境問題という言葉を合わせるのがキャッチーだし、確かに言われてみると時間と環境の関連はとっても大きなものだと思います。
そして、さらに共感したのが環境という言葉をあまりにも遠いものとして捉えるのではなく、私たちを包んでいる、とても身近なものとして語っている点です。これまで「環境」というと、私は少し自分と遠い言葉だなと思っていましたが、この時間環境問題という切り口から、とても身近な言葉として捉え直すことができました。
私たちの生きるテンポを早めているものの一つとして、”ビジネス”があると思います。
ビジネスの原義は「busy + ネス」と言われていますが、本川さんによると、その本質は「エネルギーを大量に使って時間を短縮すること(=スピードを上げること)」と言い換えることができるとのことです。
日本語で書くと、busy は「忙しい」。心を亡くすと書いて忙しいとは、過去の言葉を作り出した方の言語センスに圧倒されますね。時間を短縮することによって必ずしも心が満たされないということは起こりえます。では、どうしたら心を失わずに、それでいて経済活動もいい感じにやっていけるのかを考えていく必要があると思いました。
もしくは、もしかしたら過剰な経済活動に依存をすることに対して、一定の距離を置くということをやっていった方がいいかもしれないと思いました。いわゆる大量生産・大量消費の世界観は、量的な拡大を良しとします。いわゆる、「何がなんでも新規的なものを作り出して、継続的な経済発展を遂げないと」という想いや「貪るように消費をしたい(という無意識)」の想いにつながってしまいやすいように思います。
それはそれでよかったのですが、時代の変化の中で、もう少しバランスを調整した方が良さそうだ、という機運が高まっていますよね。人の価値観も変わっていくし、地球環境への意識は高まってく一方です。その流れの中で私たちは、どう変わっていけるのだろうか(どう生存し続けることができるだろうか?)という問いを常に抱えて生きていくことになるでしょう。
時間環境問題への個人的なアプローチ
それで、改めて、自分自身のこれまでの取組みを時間環境へのアクションとして振り返ってみました。
私はこれまでの経済活動の中で、やや疲弊してきたように思います。自分自身の身体の時間感覚と比べると流れが早すぎたからです。自分自身のリズム感はもう少し遅いというか、適切なリズム感覚を取り戻したいと思うようになりました。
その疲弊から適切に回復していく上で、私の場合は仏教思想を学ぶという時期を経ました。この学びが特に大事だったと感じています。
さらに最近(2020年5月時点)では、大学時代に過ごした京都へ引越し、環境の変化を通した自らの時間感覚の調整を継続しています。
時間感覚を捉え直す実践の一つが「詩」です。
京都に来て、おのずから自分の身体から「詩」が出てくるようになりました。意味ないものとしていた詩をなぜ自分が書いているのかとっても不思議に思いながら、1ヶ月ほど継続しています。(実践の一つとしての詩と書きましたが、そもそも目的を持って詩を書き始めたわけではないので、詩を書けば時間感覚を適性に調節できると書くとそうではないと思います。)
詩を書くことは、結果的に、スピードが速く流れるところで削れてしまった自分自身の人間性を取り戻す大事な時間となっています。
自分にとっては最小限であり、最大限の表現行為としての詩。経済的評価という軸から外れ、自分に染み付く「早すぎる」時間感覚の外側を探究する詩作によって、とても救われています。
私が体験しているのは、このようにも表現することができます。
このような回復に合わせて、次は「間」を取り戻すということを意識しています。
ここに書いたように、
「忙しさで心を亡くして生きることをやめていく」という内的なあり方を整えていきながら、外側の環境にも働きかけつつ、より良きあり方を模索していくことが、私にとっての時間環境問題へのアプローチだったのだと思います。
ポスト資本主義
「時間環境問題」という本川さんの主張については、経済学者の広井良典さんの『ポスト資本主義』の文章を読んでいて知りました。
広井さんが現行の資本主義に指摘している点の一つが、「過剰であること」です。「過剰を抑制する」こととして、富の生産の「総量」の問題と、貧困や格差という富の「分配」の問題の双方が複雑に絡み合って問題が生じていると言います。
過剰な生産・消費は自然環境資源のテンポの早い消費に通じます。さらに、環境の話とは別の軸で語られがちな、過剰な生産スタイルの中で疲弊していく人たちに起こっているメンタルヘルスの問題も、大きく捉えるとつながった事象なのではないかと思います。
「より良く、より早く」が要求されがちな世の中ですが、もう少し、ゆるく構えてもいいのでは?と思います。たとえば、ある人が生産のスピードの速さについていけないから「使えない」のではなく、むしろ、早くなりすぎてしまったテンポ自体を適切に落としていく段階に私たちがいるのではないかと思っています。
私は、「過剰である」ということに対して、そこから転換していくヒントを仏教思想に見出しています。
仏教思想には「貪瞋痴(とんじんち)」という人が囚われてしまう三つの要素(煩悩)というのが挙げられているのですが、その中の「貪」が過剰さに関わるものです。
仏教の文脈でいうと、貪るように消費をすること、に対して、それは煩悩だよ、という手放すべきものとして説明されています。
一方で私は過剰な生産への囚われもまた、「貪」の精神性と言えるのではないかなと思うんですよね。
「トランジション」への光の当て方を変えてみる
20年5月25日、松本紹圭さんとの共著本「トランジション 何があっても生きていける方法」を出版しました。
感情の扱い、精神の扱い、さらには人間や自然をどう捉えるのかなどの話題に触れながら、仏教思想をベースにしながら「より良く生きていくのか」に迫った本です。言い換えると、仏教の視座から「ゆたかに生きる方法」について書いています。
このトランジション本ですが、「時間環境問題」という着想を得て、その切り口から自分自身が松本紹圭さんと書いた内容を振り返ると、その内容は「"忙しい"という心の状態が生まれやすい時間環境を調整する方法」とも呼べそうです。過剰であることを志向する心を適切に扱いながら、生きる時間のスピードをゆるめていく。自分の心を調えることは時間環境を調えることにつながり、時間環境を調えることは自分の心を調えることです。
時間の流れが早すぎるということ、みんな感じませんか?
適切にスピードを落としながら、というか、落とした方が、地球環境保全にもなるし、省エネになるし、心も平穏になるかもしれません。もちろん、いきなり生きるテンポを遅くすることは恐ろしいことだと思います。
人によっては「生産をしないこと」「意味ある時間を過ごすことができないこと」に対して罪悪感がわいてくることもあると思います。
でも、ゆるめていいんですよ。
スケジュールが多少空いていてもいいんです。
余白をつくり、自然を感じたり、自分の身体の状態を感じたりしながら、ウェルビーイングを養っていくということが大事なのではないかと思います。
ここに書いているのはあくまで自分の探求の過程で思ってきたことなので、こうすべきとまでは言いませんが、ほんの少し、余白を空けてみてもいいかもしれませんね ^^
広井さんによると、今後、時間の消費がキーになるとのこと。
「時間の消費」および「時間」について、探究していくことにますます可能性を感じ始めました。
さいごに
最後に言わずと知れた、ミヒャエルエンデの「時間」をテーマにした小説の『モモ』より、登場人物の時の番人の言葉を引用して終わります。
時間環境問題を解消していく仲間が増えていったらいいなと思っています。
あなた自身が自分の心を大切に生きる時間を大切にしていくこと、そして、その時の感覚を周りの人たちと分かち合っていくこと。抽象的ですが、することはシンプルです。(どういうふうに為しうるのか?については、引き続き探究していく過程を共有していきます。)
心を失わない未来があるはずです。
私はそのような世界を生きていきたい。
みなさんも、ぜひ共に参りましょう😀
時間にまつわる2本目の記事を書きました!
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