自己表現から布施表現へ。 陽徳から陰徳へ。
次にやっていくことの一つとして構想しているのが、「招待状づくり」と「現金書留封筒を手渡していくこと」だ。
現在の大きな方向性としては、お布施する3種類の本をつくっていくことを念頭に置いて生活している。それに向けて、超えていくべきいくつものステップがあるのだけれど、その中でも本を一緒に作ってくださる方々と出会っていくことやその方々に還元することができるお金を募っていくことは避けられないことだと思っている。
どんな方法がありうるだろうか?どういう方法を選ぼうか?
先ほど、なんとなく方針が決まった。
OFUSE Experiment への招待状を作り、それを入れた現金書留封筒を皆さんにお渡ししていくということをやっていきたいと思う。
他の方法を思いついてやっていくかもしれないが、いったん、こちらの方法を有力候補として書き残しておきたい。(実行しない時は、アイデアは放棄)
匿名で現金を贈ることができる体制づくり
今回、お金の受け取り方は大別して「2種類」試してみようと思っている。
一つは陰徳のアプローチ。
もう一つは陽徳のアプローチ。
陰徳を積むという言葉を聞いたことがあるだろうか?それは名前を名乗らずに善行を行うという意味だ。逆に陽徳を積むという言葉は名乗って善行を行うという意味で用いられる。陽徳の方はあんまり聞き覚えがない表現かもしれない。
今回、いろんなお金の受け取り方をしてみようという時に、やってみたいのが、全国を巡りながら、お金を集めるということだ。昔のお坊さんたちが、全国行脚して勧進をしたように、自分も一つ一つの町を再訪しながら、もしくは訪ね回りながら、出会い直す人たちに想いを伝えながら、皆さんにご相談していきたい。
その時に、お金を贈ってくださる方がいたとして、どういう形で受け取るのがいいだろうか?ということを考えていた。徹底したいと思っていることは、誰がいくら贈ったのか?ということを明確にしないということだ。
お金を贈るという行為自体が尊いと思う。贈る量が多ければ良い、少なければ悪いというものさしではなく、その金額がいくらであっても、"有難い"ことだと思う。この一年半、皆さんのおかげさまで生きてきて、スッとそう思うようになってきた。もちろん、この貨幣社会で多めにくださるのはめちゃくちゃありがたいことだけど、金額の多寡が尊さを規定するわけではない。
さて、今はSNSが発達しているし、人は名前を出すことで承認欲求を満たすこともできるから、より多くのお金を集めるには陽徳のアプローチを採用した方がいいかもしれないとも思った。クラウドファンディングなどは贈与寄りの陽徳のアプローチだと思っている。応援してくれた人たちは基本的にクラウドファンディングのランディングページで可視化されていることがほとんどだろう。陽徳のアプローチでは、応援者の数も、金額も数えることができる。一つ一つに、名前が付いている。それぞれの顔が見える感じがする。
それを通して生じる物やコトは、ある意味、顔の集合体になる。いろんな声が聞こえてくる。
私の場合は、陰徳のアプローチにもチャレンジしてみたいと思っている。その具体例の一つが、特別仕様の現金書留封筒に今の活動への招待状を入れて、渡していきたい。現金書留封筒には、差出人の名前を書かずに送ることができるらしいから、受け取る私の方からは、誰が贈ってきてくれたのかわからないことになる。名前ありの陽徳の現金書留封筒が届いた時には、それはそれでありがたいので、受け取ろうと思う。
金額も指定しない。くださる方の、それぞれの金額を受け取りたい。送らないという人がいても構わない。
もしかすると、いつまで経っても本をつくるためのお金が集まらずに、出版できないかもしれないが、あえて、こうやってみたいと思う。実験なのだから、結果を受け入れていくだけだ。
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今、まだ動き出すことができていないウェブサイトでは、陽徳のアプローチで集まるお布施の内容と贈り主の方の名前を可視化していく。その際には、誰がいくら贈ってくださったのかということは連動して表示しない。あくまで集まっているお金の総額と贈り主の方の名前を分けて表示していく。このあたりの仕様については、ウェブサイトが出来上がってから見てもらうのが早そうなので、いったんこのくらいの説明で置いておこうと思う。
逆にウェブサイトにおいて、陰徳のアプローチで受け取ったお金の総額は表示するのだけど、贈り主の名前はわからないので、名前を表示させることはできないが、この人たちには、一人一人「ふせびとしらず」というラベルを貼って、表示していきたい。読み手がわからない和歌に添えられた「よみびとしらず」という匿名の名前の表記の仕方から発想をお借りする。
1年間の間に、陰徳のアプローチに近しい体験は何度もあった。
全く知らない人が銀行口座にお布施くださったことを思い出す。最低金額は1000円くらいで、最高金額は100,000円。振り込んでくださった方の名前が通帳にカタカナで印字してあったのだけど、知らなかったので、Facebookで銀行口座の通帳に印刷されたカタカナの名前を打ち込んでみて調べてみた。しかし、この人だろうという人は見つからなかった。そういう時には、顔も想像できず、さらには、自分の想いも告げることもできない。
だからといって、想像できないということがマイナスの事象かというと、必ずしもそうではないと感じている。
贈ってくださった方々の名前がわかるということは、その人たちのことを具体的に想像できるということだ。
逆に贈ってくださった方々の名前がわからないということは、具体的に想像できないことを意味すると同時に、無限の通り数の想像を可能にするのではないだろうか。むしろ、圧倒的に贈り主が増殖してしまう。
頂いたから返すということをしやすいのは圧倒的に陽徳のアプローチの方、つまり顔が見える方だ。
陰徳のアプローチでは返しようがない。名前も顔もわからないのだもの。返すことはできないが、贈ってくださった流れを邪魔せずに、次の受け取り手に受け取ってくださるよう、丁寧に紡いでいくしかあるまい。
ここまで書いてみて、陽徳のアプローチにおいても同じように、無限の贈り主が支えてくださっているということに気付いた。
贈ってくださった方の顔がみえているけれど、その方に贈ってくださった方々がいる。しかも無数に。それは大地かもしれない、食べ物自身かもしれない、人かもしれない。過去全てになる。ビックバンが起こってしまった。そして、今がある。
こりゃー大変ありがたい世界だ...。
いろいろ書いてきたけど、陰徳であろうと、陽徳であろうと、どっちの方法でもいいんだと思う。でも、世の中を眺めていると、陽徳を積むという事例の方がよく見つかるし、主流のアプローチになっているような印象を抱いている。
でも、昔から、陰徳のアプローチもたくさんあったはず。そういう方法があったよね、という昔話として扱うのではなく、現代に起こる現象として見てみたいなと思う。
ということで、ゆるゆると書いてきたのだけど、今回の本づくりは無数の皆さんの流れを受けて作りたい。贈る方々が溢れた世界に生きているという物語を表現させてください。自己出版ならぬ布施出版。自己表現ならぬ布施表現。といいつつ、自己から離れられない私を抱えながら生きるしかないので、完璧な布施表現はできないと思うけど、皆さんに助けられて、贈っていただいて生きてきたから、ほんの少しばかりの手がかりは残せそうな気がしています。
陰徳と陽徳のお金が集まるかは、贈り主の方々次第だなぁ。
本づくりを完遂できるかも、自分がコントロールできることじゃない。本は完成させるよ。投げ出さない。でも、それは自分だけでできるという意味じゃない。
自然の力を、人の力をお借りしないと、なし得ない。
何言いたかったんだっけ、、、?
そうそう、陰徳のアプローチとして、現金書留封筒を検討してみようと思います。
うまくいったらお祝いする。
うまくいかなかったらお祝いする。
無条件祝福へ向けて、ススメ。