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どこかにいる、同類の方々に向けて

本をつくろうと思い、文章を書いている。ふと、自分に問うことがある。本を誰に届けたいのか? それを明確にしないまま、とりあえず出てくるように文章を書く。本という企画をどうするか?ということを考える上では、届け先がわからないにもかかわらず書いている時点で「おい」と言われそうなものだが、なんか書きたいと思っている。届く先は、どこだろう。

ぼんやりと考えていると、この世のどこかに生きている同類の皆様に贈りたいと思った。

同類という言葉はしっくりきていない。とある本を読んでいる時に、「遠くにいる同類に向けて本を作りたいと思っている」ということが書かれていたのだけど、妙に共感して、それだと思った。この方が書いている”同類”とは違う"同類"を想定しよう。しっくりくる表現が見つかるまで、いったんその言葉をお借りすることにした。

さて、同類に贈る。そう思ったものの、それはどういう人間なのだろうか。

自分のことすら、満足に理解し切れていないにもかかわらず、同類に贈ろうとする時点で無謀なことだ。それは本が届いてしまった時にわかるのかもしれないけれど「受け取りました」と連絡が来ない限り、私自身気づかずに終わってしまうかもしれない。私と似た、同類の方々はどこにいるのだろうか。

私の来歴。たとえば、不登校を経験したり、お寺に生まれたり、(お寺という生業という)家業の継承の話題が降りかかってきたり、そういう人生だ。社会の価値感なるものになじめない。ここ1年くらいでようやく、なじむのをやめて、自分自身の価値感を大事にできるようになってきた。

だからといって、社会との関係は常に緊張関係をともなう。別に自分が望んでいない像を押し付けられることも多々ある。その時に、クラってしまって、葛藤する。皆さんのつくろうとする社会なるものを維持するために有効に機能するイメージや役割を他の人に担ってもらおうとするコミュニケーションが起こること自体は否定しないけれど、与えてこようとするイメージをすべて、「はい、そうですね」と受け入れるほど従順になれない。

同時に、自分の価値感を大事にしつつも、それに固執し、ガッチガチに固めて他の人に飲み込ませようとするのも、なんだか嫌だ。他の人が「こうあるべき」という薬を飲ませようとする時、それは「毒」にもなりうる。逆に自分にとって素晴らしい「薬」を飲めよと押し込もうとする時、それは「毒」にもなりうる。自己を求めて、自己から離れる。両方が大事だ。

自由になっていきたい。

私は、おそらく、自由になっていきたいと思っているくらいに、普通なのだと思う。自由になっている人は、もはや常識とか普通とか、そういうものを気にしないだろう。本が完成しても、自由になる最良の方法を描き出せるわけでもないけれど、どこかに隠れた誰かが受け取ってくれることを祈るばかりだ。

特に、届いてほしい人たちは誰かというと、「継ぐか否か」ということが頭の中にちらつき続けてきた方々。その中でも、「継がない可能性が高くなっている人や継がない人たち」に届いてほしい。自分がそういう渦中にいるから、そう思うのだろうね。

せっかくの人生だから、この世にいる間に、試行錯誤してみたい。毎日が実験だと思って、「こうあるべき」のとなりに、意外と心地よく歩くことができる回路を見つけていく。

みんなが歩いたり、走っていたり、流れが行き交う道の裾の方で、道草が生えているような感じ。人生で道草を食う人、つまり、まっすぐと歩かず寄り道をしてしまう人に、偶然にも届いてしまったら最高だ。

こんな道草もいる。それが伝わると嬉しい。そういう本になってほしい。もはや誤解されてもいいし、正確に理解してもらえなくても構わない。わからなくてもいいし、わかった気分になってもらってもいい。

少なく、狭く。同類の方々に、届け。


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三浦祥敬(しょうけい)@アートプロジェクト・fuwatari
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