23年度、5回目の0リセット
こんにちは。23年の2月5日にお金が0リセットされました。
5回目の0リセットは2月6日の10時半ごろでした。2月5日の夜に0リセットしたところ、1人の方からPayPayでお金を頂きました。まぁ、寝て、起きたら、どうにかなっているだろう?と思い、いったん就寝しました。
その結果は、1人もお布施してくださる方はいませんでした!笑
こんなこともありますね。
身体は結構ざわざわしていましたが、「大丈夫なのではないか?」というふうに思い、もう一度SNSで呼びかけてみることにしました。
書いている間は、ざわざわしたり、大丈夫かーと安心感があったり、行ったり来たりしている感じでした。0リセットをどう捉えるかによりますが、「恥」だと思うと、何度も何度も連発したいものではありません。ですが、0リセットする生活をしますって言ってしまっているし、どうしようもない恥はここに置いていくんだと思い、5回目の0リセットの文章を書いていました。
恥。あえて言うなら、自分自身がいつの間にか持っているプライドを手放す必要があると感じています。京都大学を卒業したとか、本を出したとか。そういうものに捉われたくはないですが、ユニークな人、魅力的な人が現れた時に比較してしまって不安になると、そういう過去の何かを引き合いに出して、自分の気持ちを安定化させようとするという思考の働きが起こることもあります。
プライドって厄介だな〜。どう付き合っていこうか。そういうことを考えている最中に、臨済宗のお坊さんの「地に落ちた出家者」というものを思い出したのでした。
突然かかってきた電話
まさに上の文章を書いていたのですが、突然、電話がかかってきました。電話の主は、去年から度々相談に乗ったり、話を聞いたりする相手になってきた人でした。その方が23年初めて連絡をくださって、「あけましておめでとう」から始まる雑談が始まりました。
その方は、4回目の0リセットの文章を見て下さったらしく、「0リセットに共感しました」と伝えてくれました。それで、今回、お布施してくださるというのです。
私の巡礼および、お布施の生活は、支えて下さる方々がいなくなったら、今の形は継続していくことはできません。特に、あった方々に「お布施してください、お願いします」という声がけは基本的にやりませんから、そういう流れが完全に止まったら、終わりです。
いつも、終わりが訪れるかもしれないと思っているのですが、500円でスタートした2月6日は「終わりかもしれない」というざわざわ感が生じていました。何かしらの形で別の工夫を行いながら、何らかやっていくと思いますけどね。
そんな中、口座にお布施しますと言って下さって、もうめちゃくちゃ有り難くてですね…🙏
実はその日、別府から由布院にいくことになっていたんです。由布院の方でとあるカフェ・ギャラリーを訪ねることになっていて、人に会う予定でした。
しかし、別府から由布院はバスで940円、電車で1130円かかります。PayPayのお金では両方とも払うことができませんから、5回目の0の時には、せめて交通費だけでも確保しないと「お会いする予定になっていた方にお会いできないぞ」と、そういう焦りも生まれていたように思います。
そんな流れの中で、予期せぬ電話がかかってきて「お布施します」という言葉。安堵が広がり、「よかったぁ」と肩の力が抜けました。0のお知らせの文章を書いている、まさにその時にかかってくるなんてね。本当にありがたく、うれしかったです。
そのことを書き足して、0リセットの文章を書きました。
ありがたいなという実感が起こり、これ以上、募る必要もないと思ったのでしょうか。特に口座情報を載せるでもなく、文章を書いて終わりました。
すると、この投稿に対して、複数名の方から反応を頂き、お布施を頂戴することになりました。
その中でもとっても印象的なコメントがありました。
このコメントを頂いた時に、なぜだかわからないんですが、涙が出てきました。ただただこみ上げてくる何かを感じました。
「このような世界に生かして頂いてありがとうございます」という感謝も湧いてきます。いつも意識したいと思っていることだけど、0円の時の一時的に【無い】状態だったからこそ、【有る】に転化したことに対する驚きと、人の温かさに触れて、何かの蓋が取れたのかもしれません。
いまだにうまく言葉にならないので、身体に生じた感覚を味わっています。
財布や口座はよく0円になりますが、つながりという意味では全く0ではない世界。さまざまな人間に限らず、世界に様々な生き物がいて、どうしようもなく命を殺めて、頂いて生きている。
その連なりと巡りを一身に受けることの喜びは、ものすごく大きいかもしれない。誰に何を伝えたらいいのかもわかりませんが、ありがとうございました。