私は今、余生を過ごしています
東京3日目になりました。東京の1日目、継承にまつわる企画で登壇。終了した後、泊まるところを募って、友達が紹介してくれた場所へ巡り、屋根・壁・床が揃った泊まるご縁を享受することができました。ハッピーです。
2日目は結構人に会いました。青山で1件、渋谷で2件、早稲田で1件。ご飯、お茶、カレー、お茶をお布施いただき、過剰に栄養を摂取させていただきました。皆さんから頂いたものが文字通り血肉となり、身体として連れていくことになります。ありがたいことですね。夜もホテルの部屋を取って頂いて、感無量です。屋根・壁・床があるのは素晴らしいことだと再認識しました。
*
今日は余生について。
私は最近「余生」という言葉をよく使うのですが、今まさに、東京で余生を過ごしている気分です。
東京の初日、予定があったんですよ。先に書いた継承の企画のことです。そこに呼ばれたので、東京に来ることにしたんです。それが1日目にして終わってしまった。東京にいる理由を喪失してしまったわけです。
目的を持った人生の喪失。そう書くとネガティブな経験のように聞こえますが、逆にいうと、目的があるというあり方から離れた人生のスタートという段階に突入したということもできます。私はそれを「余生」と呼んでいます。ついでの人生といいますか、そんな感じです。
*
東京2日目はすでに余生だったのですが、たくさんの方々とお会いしました。「なぜ東京にいるのですか?」と言われるたびに、東京の1日目のことを話します。しかし、それ以上のことは出てきません。2日目に皆さんとお会いしたのは、ついでのことなのです。でも、それはお会いするということを軽視することではまったくありません。ついでなのだけど、会ってしまうことができることが嬉しいのです。余生になってもなお、相手をしてもらえることの喜び。目的ある会話ではないからこそ、逆に生まれてしまう思索や発見があります。どこに向かうのかわからない雑談をさせて頂けることの面白さを感じているので、余生に呼びかけてもらって、「会いましょう」となるのはとっても嬉しいことなんです。
*
私は社会に対して、余白のような状態になりやすい思考・行動パターンになっています。目的志向の社会が生まれると、そこにはいづらくなります。だから、目的を遂行する組織活動などとは相性が悪いことが多い。ただ、少し違うモードで生きているからこそ、目的や意味をほどくということがしやすく、人生の余裕を取り戻すという時に、何らかの役に立てるのかもしれません。
*
ただ、面白いのは、余生を過ごしている時に起こったことが、後々、何かにつながってしまうということがあります。私は本を執筆しているのですが、別に本のクリエーションに捗るような人の縁、リソースを獲得するために時間を使っていないにもかかわらず、目的が明確でない余生を生きていると、そういう出会いが起こってしまうということが生まれます。どう転ぶかわかりませんね。諸々のご縁が起こることに感謝します。
*
余生をいることは、セレンディピティが起こる余白を自分の中に持つことだと感じています。全力で余生を生きると、それはそれで創造的な世界を生きることになるかもしれません。あくまで、なるかもしれません程度の話です。余生から生まれてくるものは、あくまで人生の副産物ですが、面白い副産物を創作できるように心から楽しんで参ります✨