思いがけないことが起こる世界になっていく
巡礼生活をやっているうちに、不思議な感覚が生まれてきました。それを名付けるとすると「贈らせて頂くという喜び」という感情です。私の場合、特にから揚げはお布施するスタイルを続けているのですが、から揚げの場でお布施を受け取る賽銭箱や箱などを置かずに、ひたすら「どうぞ」と言い続けながら回数をこなしてきました。それは自分自身も「どうぞ」という流れでお金や食べ物などを受け取っているからだと思います。
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カラアゲなり、他のお布施なりを受け取った際に、相手がお金を差し出してくるのが目標ではありません。お金は便利ですので、ありがたいと思いますし、差し出して頂いた時にはスッと受け取るようにもなりました。とはいえ、私は差し出すことを修行として行うという前提でやっているので、お金になろうと、なるまいと、「どうぞ」と言い続けてみるということを実践してきました。
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より重要なのは受け取り手がいて、贈るということと受け取るということがつながるということだと思っています。流れが断ち切られないというか、なんというか。受け取り手がどういう振る舞いをしようと、OK。不思議なことに、受け取り手の方々が現れ続けると、その受け取り手の方がすぐにその場でお返しをしなくても、さらにはいつか自分に何かお布施してくれなくても、大丈夫なんだという感覚が増していくのですよね。
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どこかで空揚げや何かを受け取ってくださった方が、後々にどこかの場面でお金や物を私に贈ってくださるということはあります。一方で、私が贈りっぱなしになった一時的な関係もあります。誰に贈ったのかなど、それほど記憶力もないから覚えていませんし、何より自分が受け取るだけの人がいてオッケーと思ってやっていることなので、受け取りっぱなしというのもそれでいいと思っています。
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ペイフォワード、恩送りとも、ニュアンスが異なります。それらは、次の人に贈っていくという流れを作ります。これはこれで方法としていいなぁと思うので、ただ何かを頂くことに罪悪感を抱く人には、「次の人に巡らせて頂いたら、いいですよ」と伝えます。となると、私もペイフォワード、恩送りのフレームも使うことがあるみたいです。
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色々試したいて、結構、「思いがけず頂くこと」や「思いがけず受け取って頂くこと」を増やしたいのだと思いました。自分を開けば開くほど、思いがけず何かが舞い込んでくるし、開けば開くほど、自分という器から生まれていくものが波のように伝わっていく感じがしました。思いがけない人生を送っていくには、思いがけない世界に開かれた姿勢で生きてみる。私は、諸々の実験で、姿勢の調え方を学んでいるような気がします。