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「何かをしよう」ということへの諦めから始まる思索と文章

朝起きて、今日は特に何かをしたいという気分でもなかったんですけど、次の瞬間に何をするか考えようという思考が起こったんですよ。でも、何かしたいわけでもないから、わざわざ何をするか考えるのもなんだかな、と思いまして、その次の瞬間に「あぁ、したいことが浮かぶまで瞑想でもしよう」と思いました。

それで座り始めたのですが、そもそもしたいことが浮かぶために瞑想するのもなんだかな〜と思いまして、次の瞬間に「ただ、座ろう」というふうになりました。そうし始めると、この思考の過程について文章を書こうという着想がやってきました。そういう流れのもとで生まれてきたのがこちらの文章です。書きながら、どこに辿り着くのかもわからず、出てくるがまま書いています。

そういえば、普段の生活の中でも「何かすることを生み出さなくては」という思考が優勢になる時があるな〜と気づきました。何かをすることを思いつくために何もしない時間を過ごそうと思うという癖にとらわれなくなっていくと、どういうことが起こるのだろうか?とただいま好奇心がオンになっています。

ただ、目的なく座る。それは禅の坐禅でも言われることです。目的を持って動くという世界からの逸脱。何かのために座るのではなく、ただ座る。無目的な状態になって、そこで流れが起こってくる。アウトプットが必要な場面で着想が降りてくるように座るということをすることもあるけれど、着想が降りてこようが来るまいが、ただ目の前の行為に溶け込み、存在するということにもまた満足感が生じることは小さな発見でした。

ひとまずこの文章が生まれてきたことは予期していなかったことで、そういう流れに身を委ねることができることは至福なことだなぁと思っています。ここ最近、自分の思考・心や精神・身体・周囲の環境に起こることを観察していると、予定の組み方が変わってきているように思います。

普段、あんまり予定を組まないようにしています。たとえば、誰かとお互いに会って話したいね、ということをSNS上でやり取りしていたとします。その時、3日以上先の予定を立てずに、「このあたりの日程で、直前になったら会う時間を決めない?」と提案することが多いです。私と関わる方々はおそらく「三浦はそういうタイプなのだ」という感じで捉えているのでしょうか。無理に予定を決めようという人はあまりいなくなりました。私自身もそのあり方でいさせてもらえることがとてもありがたく、今のところ、特に問題も起こっていません。

一方で、すでに入っている予定もあります。いわゆる「仕事的なもの」は予定化されています。会社さんとの関わりの中で行なっているオンラインの仕事では、数ヶ月先のスケジュールまで入っています。ただ、それらの時間は縫い物の制作の時間でもあると思っているので、強制的に制作の時間が生まれるのは、それはそれで良いなぁという感覚になっています。したいことができるようなスケジュールしかカレンダーに記入したくないと思っていますので、今のところはこのやり方で満足しています。

こういうふうなやり方をしていたのですが、変化が起こっています。これまで「こうなりそう」「これをしようかな」「こういう予定を入れている」という1日〜3日の予定を想像して行動していたのですが、だんだんとそれが当たらなくなってきました。自分の行動が読めないのです。日中過ごしているうちに、「そうだ、これを今しよう」という流れが生じてきて、最初に想定していたものとは異なる時間の過ごし方になるということがめちゃくちゃ増えてきました。最初は思っていたイメージと実際に起こることのずれにひっかかりを感じていたのですが、最近は、自分のイメージにとらわれずに動くことができるような感覚が生じていて、心地よさを感じています。

今のところ、広がるイメージを現実に表していく未来からの流れと、することに囚われない現在の流れの両方が自分の創造の源だと感じています。その間で良きバランスをとりながら生きていく術を引き続き探究していきたいと思います。

そんなことを書いているうちに、過去をも創造の源として生かしていく流れも体感していることに気づきました。ただ、書くのに満足したので、いったんこの文章はここでクローズです。

読んでくださってありがとうございました。
良き1日をお過ごしください。

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