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【時間4】つながりの中で時間環境を調える

6月18日、時間環境問題へのアプローチという投稿をしました。今日はそれの続きの文章を書きます。サムネイルに登場いただいたのは、我らが鳥獣戯画のウサギ先輩です。坐禅されています。

今日の内容は、「時間環境を調える」ことについてです。

私の物の見方は、仏教思想に影響を受けていますので、仏教的な目線のあり方がちょこちょこ出てくることを前提に読んでいただければと思います。

「時間環境問題へのアプローチ」の記事で、しっくりきていなかったことの一つが、"時間環境問題"という物の捉え方でした。「問題視」するということは、私たちの生活を眺める別の方法を提示し、日常を異化してくれます。

ただ、時間環境問題について考える上で、その異化の仕方がより良いものなのか?と自分に問うと、腑に落ちないものがありました。

それはなぜかというと、問題を認識していない人と問題を認識している人という構造を容易に作ってしまうからです。その上で起こりがちなのは、問題を認識している人の問題を認識していない人へのマウンティングです。それは私が向かいたい方向ではなかったので、時間環境問題という言葉自体を早くもリフレームしたいと思いました。

環境との関わりの中で、心を見つめる

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そこで考えたのが、「環境を調える」という視点です。自分たちの身の回りの環境に対して、私たちは働きかけることができます。心のあり方と環境のあり方は連動します。

たとえば、自分の部屋を想像してみてください。忙しい日々を送っている時、どうしても部屋が散らかることがあります。散らかっていく部屋は、私たちが働きかけないと、秩序だったものには戻りません。

私たちは、心を見つめるそれ自体だけではなく、身の回りの環境がどのようになっているのかや自分自身に対してどのような反応を向けてくるのかによって、心のあり方を推しはかることができるのではないでしょうか。

その際に、身近な環境を問題にする時に、環境に問題がある、というのは確かにそうなのかもしれませんが、それは同時に、心のあり方の影響が外部環境に表出しているという物の見方をすることもできると思うのです。

「環境を調える」とは、「自分を調えること」につながります。

問題化だけでなく、「不調和⇄調和」という見方を

私は個人的に、「問題化」をするということは、対象化するという私たちの思考の働きによって、行うことができるものだと思っています。対象化するには、対象を認識する人と対象が存在するという前提に立つ必要があります。

よく起こることでいうと、「問題化」された現象に対して、対象を認識する人が関係しているにもかかわらず、私は問題に関与していないという認識が成立することがあります。

時間環境の例でいうと、友達と会った時に、ずっとスマホを触っていて、気分を害したという例を思い浮かべてみます。

対象を認識する人から見ると、問題は、「ずっとスマホを触っている友達」です。それに対して気分を害するという心的な作用が自分自身の身体に起こります。その気持ちをどうにか見ないでおきたいという時、人は外に視点を向けたり、外の対象化したものを責めることで、自分の感情のゆらぎを解消することも多いです。

私も相手が携帯を使って、さも「心ここにあらず」の状態は嬉しくはありません。相手を単純に責めると、関係性にヒビが入ってしまうこともあるので、どのように伝えるか悩みどころですよね。目の前に物理的に存在していても、そこに心がなければ、存在していないのと一緒です。なかなか悩ましいことだなぁと思います。

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私は、「問題化」の代わりに「不調和⇄調和」という物の見方を採用することが多いことに気付きました。

そのベースにしているのは仏教的な世界観のあり方です。 仏教思想からは「すべてのものはつながっている」という広い意味でのいのちの哲学を引き出すことができます。その「いのち」は縁起という「何かがあって、何かが起こる」という相互作用としても説明できます。

私と相手の間に、不調和が起こっているのか、調和が起こっているのか。不調和が起こっていると思う時には、「不調和→調和」に努めます。部屋を片付けることに似ています。心が通い合った気がするという体験は、とっても幸せなものですよね。つながりを感じるということは、人と調和するということでもあるのではないかと思います。

固定化ではなく、良き縁になること

ただ、「不調和→調和」はなかなかに難易度が高いことです。それぞれの命は、変化し続けています。自分自身の心や身体のあり方も変化し続けていますし、それは相手においても同じことです。

たまたまタイミングがあって「不調和→調和」を体感したとしても、簡単に「調和→不調和」に転じてしまいます。でも、そこで、コントロールしようとすると、少しおかしなことになることもあります。

調和と不調和は波のように、位相が移り変わります。(そもそも調和と不調和がきっぱり二項対立で分かれるものではないと思います。)諸行無常の移り変わりを前にして、私たちができることは、移り変わっているものを固定化することではなく、相手にとって良き縁になることだと思います。

良き縁に触れ、良き縁となし、良き縁となる、そして自由に生きる

私が好きな仏教者のプラユキ・ナラテボーさんの言葉を引用しました。

仏教界隈の方々と関わっていて、時折思うのですが、「コントロール感」が薄い人が多いんですよね。

仏教思想の目指すところが、思い通りにいかない世界をより良く生きることであり、その影響を受けている人たちが、うつろっている世界をコントロールせずにあるがままを生きていくという志向性を持っていることが多いので、そのように体感するのかもしれません。(※あくまで人によります)

仏教界隈の方がよく使う言葉の一つに「調う(ととのう)」という言葉があります。そこに私は、これからの変化し続けることが前提の21世紀をよりよく生きていく時のヒントがあると思い、今回、時間環境という話題にも転用してみました。

時間環境を調えるスタートは自分を調えることから

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(かわいいという理由だけで採用された鳥獣戯画よりウサギ先輩)

周りに影響を発していく上で、重要なのは、自分自身を調えることです。仏教思想は、「心、身体、習慣」を調えることによって、自分自身が「苦を手放し、楽に在れる」可能性を提示してくれます。

周りを調えよう、調えようと思っても、それが過度に負荷が高い関わりになってしまうと、自分がしがらんでしまいます。苦しくなるんですよね。相手もしんどくなります。

坐禅、自然に触れる、マインドフルネス、サウナ、より良い食生活を送るなど、調える方法は多岐に渡ります。私たちそれぞれに合う方法は違うと思いますし、合う方法を見出していくのが良いと思います。(さらにどのように何が調っていくのかもそれぞれです。どのように違いがあるのかは様々な実践者の方々と話していきたいなぁ)

さいごに

今回の投稿で書けませんでしたが、人間関係との調和だけでなく、自然との調和も大事なトピックですね。またいつか書きます。

ぜひ皆さんも、時間環境について考える時に、環境だけではなく、心や身体のことも感じてみるのはいかがでしょうか?

時間環境の調え方、共に探究していきましょうー😀

#時間環境を調える
#時間環境問題











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