不調和の筆で調和の輪郭を描く
僕は曲を書き、歌を歌っている。
何年か前に純正律という概念を知ってから
自分なりに音楽という表現媒体について考察と実験を繰り返している。
僕たちが普段慣れ親しみ、現在世界の音楽の大半で使われているのは平均律という音の並びだが
その他にも純正律やピタゴラス音律、ヴェルクマイスター音律など様々な音律が存在する。
歴史上の音楽家や物理学者、哲学者が試行錯誤してきた足跡である。
純正律で鳴らす和音はうねりが無く、完全調和である反面コード進行の選択肢がとても狭く、
転調もできないので物語性を表現しにくい。
天上の音と言われるのも納得で
調和・統合されているからこそ、良くも悪くも
音そのもので完結してしまう。
一方で平均律はオクターブ以外全ての和音が少しずつ不調和だけれど、多様なコード進行や転調が可能なので
多様な物語が生まれる。
これは人生にものすごく似ていると思っていて
分離していて不完全だけれど、だからこそ、多様な価値観や物語が生まれる
そして、そのズレやノイズにすら美しさを見出すという感性が問われる。
純正律の和音は空間芸術や"場"に近く、
平均律の音楽は時間芸術の要素が強いイメージがある
純正律は縄文的で、平均律は弥生的とも言い換えられるかもしれない。
どれが良くてどれが悪いという話ではないけれど、平均律一辺倒ではなく
もっと多様な選択肢があって良いと思う。
今の自分は音楽を通して物語を描きたいいう気持ちが強いけれど
何を表現したいかによって、表現媒体を考察していくことはとても重要なことだと思う。
言葉というのは世界からある概念を切り出したものであり
"調和“という言葉・概念を生み出した瞬間にその外側の"不調和"という部分が生まれる。
それらに良いも悪いもなく、勝手に人間が切り出しただけで、元々は一つだ。
だとすると"調和"とは何かを本当に理解するには、その外側に在る不調和への探検が必須であり
それによって"調和"が浮き彫りになってくる。
そういった意味でも人生は不調和への探検であり、元いた一つなる調和への旅路・プロセスであると思う。
平均律などの不調和やノイズを含む音楽も、不調和への探検のプロセスであり
人類はもうそろそろ、不調和の船の軌跡によって、完全調和の輪郭を描き出すのかもしれない。
どんな絵が出来上がるのか楽しみだ。