コミュニケーションで共有すべき大切なもの
教員時代、国語の授業で扱った教材の中で、今でも心に残っている文章がいくつかあります。その1つが「ゲラダヒヒの平和社会」(※)です。
筆者は、臨床医として終末期医療に関わる大井玄先生。主に認知症の患者さんとのコミュニケーションについて書かれているのですが、この中でエチオピア高原に住むヒヒの一種「ゲラダヒヒ」が紹介されています。ゲラダヒヒは、群れ同士でのケンカが全くない珍しい動物です。ユニット(家族)間、その上位集団のバンド(村)間の関係は対等で、暴力のない平和社会を築いています。霊長類学者の河合雅雄先生によると、平和社会を維持できる理由は、鳴き声を「相手を安心させる、なだめるといった社会関係の調整」に使っている点にあるそうです。ヒヒたちは、「情報」を伝えるための言葉は使えませんが、「情動(感情)」に訴える音声コミュニケーションを巧みに行うことでトラブルを防ぎ、仲間同士のつながりを維持しています。
著者は、コミュニケーションには「情報共有」と「情動共有」の2つあり、認知症の患者さんと会話をする時は、「情動的コミュニケーション」が大切だと言っています。「情報共有」がうまくできなかったとしても、一緒に会話を楽しみ、優しい声でうなずくことで、心を通わせることはできるそうです。
※『「痴呆老人」は何を見ているか』(大井玄 著/新潮新書)の一部を抜粋した文章
私は、この文章を初めて読んだ時、亡くなった祖母のことを思い出しました。晩年、介護施設に入っていた祖母は、少しずつ季節や自分の年齢が分からなくなっていきました。私は、祖母との会話に関して、深く反省しています。「もう冬だね」という祖母に対し、「違うよ。今は夏だよ。」と言ったり、「おばあちゃんは、今○○歳だよ。」と祖母の話す内容をその都度訂正し続けていました。「以前のおばあちゃんに戻ってほしい。」そんな想いからだったとはいえ、祖母には申し訳ないことをしたと思っています。「正しさ」よりも「優しさ」を優先するべきでした。
今年の5月に待望の第一子が生まれました。お陰様で息子は元気にすくすくと育っています。最近は、「あ~」とか「う~」とか、たまに「あう~」とか声を出すようになりました。私は、息子が声を発する度に、うんうんとうなずき、「わかるよ~。」「そうだね~。」と相づちを打ちながら語りかけています。当然まだ会話はできませんが、日々お互いの気持ちが通じ合っていくのを感じています。妻にはかないませんが、泣き声を聞いただけで、「ミルクかな」「おむつかな」「眠いのかな」と息子が欲していることが何となく分かるようにもなってきました。きっと天国のおばあちゃんも、この親子の交流を笑顔で見てくれていると思います。
道場でもこうした心と心の交流を見ることがあります。先日、足裏を合わせてごろごろと転がっては起き上がる「だるま」という準備体操をしていた時のことです。1人のお子さんが、なかなか起き上がれずに、「う~ん」「あれ~」と言っていました。すると、すぐ隣にいた未就学児のお子さんが、その声を聞くやいなや、すぐに体を起こしてあげたのです。「体を起こして」とか「やり方を教えて」という言葉がなくても、仲間の困っている声を聞いただけで、行動に移す。その彼の姿にとても成長を感じました。その後の2人はニコニコ。この体験を通し、2人は更に仲良くなったように感じています。
人が生きていく上で、コミュニケーションはとても大切です。ただ、コミュニケーションで共有するのは「情報」だけだと思ってはいけません。自分の言葉や行動に気持ちを込めること、同時に相手の言動から気持ちを感じることもコミュニケーションの重要な要素です。
大井先生は、先の文章の中で、「楽しい情動を共有するという経験を重ねると、理屈を超えた親しい関係が成立します。」と言っています。「咲柔館(しょうじゅうかん)」の「咲」という時には「笑」という意味もあります。柔道は「楽(らく)」ではありませんが、「楽しい」面もいっぱいあります。道場に来られた方たちが笑顔になるような稽古、交流をこれからも行い、皆さんの心と心をつないでいきたいと思います。
「柔道家が増えることで、社会はより良くなる」
文武一道塾 咲柔館