たどり着く違和感のために場をつくる
なんで誰かと何かを作ったり、意見を交わしたりする場を意図的につくるのかっていったら、油断すると勝手に脳の中に組み立てられてしまう「当たり前」の回路を、定期的に自分でぶっ壊したいからなんじゃないかなと、思い至ります。
私は何故か、いわゆる自明性の罠、根津氏風に言えばデフォルトの壁、宇田川氏の言葉ならナラティブの崖、色々な人が言葉を変えて戒めてきた人間の脳のある種の最適化の仕掛けが、昔から本能的に恐ろしくてならないのです。
その罠の先にある、何かをつい狭量に決めつけて、どこかの誰かを無自覚に傷つけかねない言動を目にしてしまったら、恐ろしいを通り越して忌まわしいような気持ちになってしまう瞬間もある。
そしてそれは、悪意ではなくただただ脳の周辺を漂っている罠でしかないので、自分がそうなることを100%防ぐことはできないのだとも思うし。
だから、思い込みを壊してくれる、それも、痛みだけでなく、ワクワクやゾクゾクした楽しさもちゃんと伴って壊してくれる場を、つくってみたいし、つくっていきたいし、そのために必要な色々な意味での能力を、高められたらいいなあと日々願うのだと思います。
まだ自分が知らない違和感に、きちんとたどり着くために。