「怯え」に向けてワークショップをデザインするなら
「闇色の研究」を通じて、今いる場の閉塞感の背後に、ある種の「怯え」の気配を感じました。
そして、私がそれに対して閉塞感を感じるということは、私にとってその「怯え」の元になる何かは、多分怖いものではないのでしょう。だから本能的な共感をともなって理解することが難しい。
ただ小手先の理性でわかったふりして臨んでも、うまくいかない。
つい自分のエゴが勝って。
エゴはまぁ倒したとしても、今度は静かなる義憤にやられて、
「いや、「怯え」があるっていっても、だから何でもありじゃないだろう」
「やはりおかしいじゃないか、息苦しいじゃないか、どうしてくれようか」
みたいになっちゃうのです。
義憤に関しては、否定せず大事にすると決めましたが、かといって、今、見極めたい「怯え」の姿を見えなくするほど、義憤に前面に出られるのもよくない。
「あるあるなアイテム」を現実で手にするには
私の目に映らない種類の「怯え」なのとすれば、特殊なメガネをかけないといけないわけです。
ゲームだと、進行のキーアイテムとして、インフレ起こしそうなくらいたくさん、その手の道具を見かけます。
が、現実で手に入れるのはなかなか難しい。
そのメガネの一つが、実はワークショップなのかもしれません。
しかし、私が今いる場所は、「名乗らないワークショップ」をひそやかに滑り込ませるところから始めているような状況にあります。
いきなり劇薬のように、それ自体がメガネの様に、強烈な気づきを促すというのは、一足飛び過ぎて無理がある。
すると、例えば、ちょっとした「場づくり」の中に、まずお互いに「メガネを手に入れる」ことができるような仕掛けを仕込んでみるところからなのだろうか。
ワークショップは入れ子で螺旋。
理屈を自分の言葉でパッと説明はできないけれど、そういう絵が脳裏に浮かんでくるから、きっとそれは正解なんじゃないかと直感しています。