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2.闇色の研究「若手とベテランの境目、不幸せな実感」

ネガティブもポジティブも、突き詰めると同じところにたどり着く。ヒントは、コインの裏側に潜んでいたりする。

「窮屈」と「退屈」を敢えて生産し続ける構造、仕組み、何かそういうプログラムがわざわざ組まれているような決まり悪さがあるのです。

「正当的周辺参加」とは何か違う、決まりの悪さ

私の場づくりへの思いを生み出す、闇色の声の一つ。

「若手とは、ベテランが『育ててあげる』『未熟な』存在」

これは、私の所属する組織に、誰も疑うそぶりすらなく横たわっている考えです。文字だけ追えば、それなりに、そうかもしれないなというお話。でも、どんな考えも、それ一つで絶対解なんてことはない。

結局どんなことでも「過ぎたるは及ばざるがごとし」なのかもしれないと、日々、実感しています。

34期WSDの、一番最初の相互コメント課題では、「発達の最近接領域」「正統的周辺参加」がテーマでした。どちらか一つを、自分自身の体験にひきつけて、エピソード交えて説明するという。(両方でもよい)

私自身は「発達の最近接領域」をチョイスしました。
うっすら自覚していました。この時、実は私は「正統的周辺参加」と自分の身近な体験を引き付けることから逃げたのです。
それは、嘘を書いてしまいそうだったからかもしれないし、向き合うのが辛いと予感したからなのかもしれない。あるいは、突っ込んだが最後、とても所定の文字数では収まりきらない程、暴走しそうだったからかも。

相互コメント課題が、結果的に私を助けた

このレポートは、私の「相互コメント乱れ打ち」という狼藉カオスのスタートでもありました。

別に、最初から全部のレポートを読んでコメントしてみようという「野心」があったわけではありません。

最初は偶発性によって始まりました。必須でコメントすることになっていた対象の方の、一つ隣(表形式なので、厳密にいえば一つ下)のリンクを、間違えてクリックしてしまったわけで…。面白かったので「つい」コメントしてしまい、その「つい」が積み重なって。途中から、もうこれだと全部コメントしない方が不自然じゃん(?)みたいな気持ちになっていき…。

ですから、別に「自分は『正統的周辺参加』をテーマにしなかったから、学びが足りない! 他の方のレポートから、学んじゃえ!」とか、そんな貪欲な計算があったはずもなく。(途中で、イロイロ統計取りたくはなりましたが)

しかし結果的に、この「つい」の行動は私にとって意義深いものでした。
「正統的周辺参加」を現実に引き付けて理解する。私には、少なくともその時期にはできない課題だったのです。それでも、どうにかこうにか「正統的周辺参加」について考えを深められたのは、ひとえに同期生さまのレポートのおかげです。オモシロ実例がてんこ盛りでした!

「そうか、それも『正統的周辺参加』なのか!」と、無邪気に感心しては、次に行く。これも、ワークショップの相互作用の一つなのでしょうかね?

他人の視点、他人の経験なら、極端な話「無責任に」聞く(読む)ことができます。これは言い換えれば、どんな話でも「素直に」受け止められるということです。

でも、自分に引き付けた時、やはり心が固まる

若手とベテランの間に、敢えて境目を設けてラベリングしていくことにも、一定の意味はあるのでしょう。自覚を促す、とか。役割が人を育てる、とか。そこに期待がきちんと載るのなら、ピグマリオン効果、とか。

でも、それで納得できないのは、実感が伴わないから。

これは私の所属組織の、あくまでも限定的な話で一般論ではないです。
私は今その場所で、ベテランと呼ばれている人たちと、若手と呼ばれている人たち双方が、そのラベリングによって幸せになっているようには、まったく見えないのです。むしろ不幸にさえ見える時もある。

きっとそこには何かがあるのです。私は、目を背けて、ただ理論武装するために「正統的周辺参加」を使いたくはないし、使われたくはないのです。きっと何かがまだ掛け違っているはずだから。

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