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学ぶのは良い意味で優しくなるためでありたい
時々、少し隣の組織で起きている、控えめにも首をかしげる感じの、参加者への締め付けのような、ある意味エセとも言うべき、場づくり(的な、似て非なる行動)のことを、モヤモヤとこぼしてしまっていました。それはそれで、相変わらず目の当たりにしているというか…モゴモゴ。
が、それとはまた別件で。
とてもまっすぐ、ご本人は一生懸命ファシリテーションしようとしているんだろうな、とヒシヒシと感じるんけど、でもやっぱり、何かが違うなと思う方の姿を、ここのところ目の当たりにしてまして。
どうしたらいいんだろうなぁ、私には何かできることないのかなぁって。
この思いも、最近、少しこぼしてしまっていたわけですが…。
でも、なんかそれも、実は私の決めつけなのかもしれないよなとか。
ファシリテーションの本、それなりに片っ端から何冊も読んだり。実践の場を作ったり、は、…してきましたけど。それで、そんなことくらいで、他の人のファシリテーション見て、勝手に歯がゆく思うのって、そういう自分って、いいのかな? とか、今度は自分にモヤモヤ。
自分なりに学んだことと、他の誰かのその人なりの行動を勝手に突き合わせて、足し算したり引き算したり、まして点数付けたりするために、学んでるわけじゃないはずだもんな…。
でも、それでもやっぱり、何だか辛そうだから、もうちょっとどうにか別の方向性に進んだら…という気持ちが起きてしまうのも、それはそれで、本島で。別に上からとかではなく、ただ見てられない思いになるからなんだよなとも思うし。それはそれで嘘じゃないんですけど。
それでも葛藤、考えすぎてしまって難しい。