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無意識に開放した回路を、伝えるために捉え直したい

何かをある程度の曖昧さとともに依頼されて、そろアウトプットするもののカタチを、すり合わせる、という過程があります。

いや、あるのです…が。少なくとも私の世界には、あるのですが。その姿カタチと意味を、他者に伝えようとして、誰の世界にもあるわけではなのだ、と気づくのです。

仕事あるあるだともいえますが、シンプルに依頼主と、経過の段階で詰めればよいところを、自分の中から、いや、正確にいえば、自分の中「だけ」から答えをひねり出そうとする人が、意外と多い。そして、確認が遅くなって土壇場で「依頼したのコレジャナイよ」が起きる。

特に、正統的周辺参加の、いわゆる外周の辺りにいる人だと、その結果が具体的な問題に直結しやすく、誰の目にも分かりやすいです。が、よく見ていると、外周の人だからやってしまうとも言い切れない感じがします。

「すり合わせ」る選択肢が一度開放されている人は、たとえ未知の領域に飛び込んでズブの素人的な立ち位置に戻っても「すり合わせ」という選択肢がいきなり失われたりはしない。

逆に、その道での経験が単純に見れば長いはずでも、「すり合わせ」る選択肢がずーっと開放されない人もいる。

私の「すり合わせ」る選択肢は、いつ最初に開放されたのか。そこには、その足場をかけてくれた誰かや、出来事があったのか。

あまりに無意識に通過してしまったその過程を、掘り起こしてみないと。伝え方が難しいなと思う次第です。

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