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素敵なものを探すのもいいけど、可能性のほうがグッとくる

素敵なもの、周りにある「ありがとう(有難し)」にきちんと気づくことは確かに大切なことで。特にごくごくポピュラーな文学作品で何度もそういう考え方は目にしたし、むしろ大事なことだからそれがポピュラーになったんだろうなとも思う。

でも、素敵なものを見つけなさいと言われるのが、それすらも辛い一瞬(そしてことによっては、その一瞬が永遠に感じるような一瞬)がふいに訪れるのが、人間ってものなんじゃないかなと。そんな風に具体的に言語化はできていなかったですけど、多分子どものときから、脳のどこかで感じていて。

「ありがとうファースト」というのか、感謝すべきことに目を向けるということの、あまりのピュアな正しさ(というか、『正しそう』さ)、素敵さ、真っ当さに、何だか諸刃の剣のような、もぞもぞとした違和感も覚えていて。

ありがとうに目を向けようとすること自体が、何か著しく直観にそぐわない瞬間も、あるのです。そんなとき、私の場合直球でありがとうを探すことは意外と役に立たない。

でも、可能性を探すこと(かならずしも素敵なことにつながるとは限らない)は、そんな時ですら本能的にワクワクする。むしろゾクゾクする。

あえて、基本を繰り返しますが、ありがとうは大事。とても大事だと思います。でもそのとても大事なはずのものが、何故か自分の気持ちと反発するときは、別の、もっと根源的な本能に視点をずらした方が、結局早くありがとうに帰って来れる時がある。

知りたいという気持ち。それが何であろうとも、気づきたいという本能。好奇心というもの。私のワクワクは善いも悪いも持たずに、ただただ、そこからやってくる気がする。

ワークショップには、そこに立ち戻る瞬間があるとよいなと思います。

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