習慣化したふりかえりが抜け落ちていく速さの個人差
今関わっているとある場所では、「ふりかえりを習慣化してカイゼンしていこう」という機運がありまして(おそらくそこでの、組織目標的なものがあってのことだと思います)。
「カイゼンするぞ」の思いは総じて強め。時々空回り的に見えることも、無きにしもあらず。
やや粗削りではあるけれど「ふりかえりというものの良さを、どんどん伝えていきたい!」と、とても一生懸命な人もいたりして。
ふりかえり用の枠組みをアレンジする楽しさに、ある種職人的に魅入られて、ちょっとオリジナリティのある枠を作ってしまう人がいたり。
多少課題のある取り回しになるターンもあったり、失敗も小さなものならいろいろ起こって。
ずっと順風満帆だったわけでもないですが、でも、取り敢えずは、途切れることなく続いていました。
まず習慣化するということにも一つの価値があるので、なるほどなあと、荒削りなところもむしろ概ね好ましかろうと、観察していたのですが…。
その場のメインミッションに、結構切実な課題が出てきて、いわゆる余裕がなくなりました。
そうしたら…、
多少やり方の取捨選択はあっても一定のリズムでふりかえりを続けられる人
完全にゼロに近くなってしまう人
と、ちょっと興味深いほどはっきりと二極化してゆきました。
……ゆきましたというか、まだ現在進行系ですけどね!
この差が、興味深くて。
傾向として、ふりかえりの習慣化を長く積み重ねてきた人のほうが抜け落ちにくくはありますが、ただ、それだけでもない。必ずしもそれだけではない。
じゃあ何が違うんだろう、何が分け目なのだろうと考えると。私なりに、もしかしてこれかなぁという因子が見えてきました。
もちろん一つの答えが全部ではなくて、複合ではあるのですけど。やっぱり、ふりかえりがその人にとって自分事化している度合い。それがどうも、大きいのじゃないかって。
まず、分かりやすいのは、チームでやっているからという、つきあいややらされ感の比重が高かった人。余裕がないのにやり続ける動機づけを、自分ですることが難しい。それはそうだろうな、さもありなんです。
しかし、どうらやもう一つのパターンがある。そこからなるほどなあと気づきがありました。
それまで、一見むしろ他の人よりやる気に満ちて、なんなら多少おせっかいに他の人にハッパかけたりしていた人がいました。しかし、その人は今では誰よりも極端にふりかえりをしなくなっています。
その人は、一見モチベーションにあふれて見えたけど、そのモチベーションを自分の力で生み出す段階にまだたどり着いていなかった。
原動力が他者の称賛、承認欲求。ふりかえりに積極的に取り組むことで、周りにスゴイですねって言われることで、自分のプライドを満足させていた。ふりかえりの価値が、本当の意味で自分事になっていなかった。
今でも、そんな風に周りがイイネの声を掛け合う機運は損なわれてはいないのですが……。にも関わらず、できなくなってしまった。
そういう他者にぶら下がった動機では、きついときの踏ん張りが効かなくなった。脆さが出た。
そういうことなんだなと思います。
褒められたら嬉しいという人間の本質の一側面を否定するものではないけど、誰に褒められなくても、絶対にこれはやりたい、楽しい、ついやってしまう、夢中になる。
その領域に近づいた人は、自分の一部になってしまっているから、相対的に火力を弱めることはあっても、完全に燃え尽きにくくて、いつでもまた再び蘇る。
だからこそ、ワークショップって、そういう力を取り戻す学びの場だといいよな。