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10.闇色の研究「たとえ弱くても、凶暴な獣に負けない」
ネガティブもポジティブも、突き詰めると同じところにたどり着く。ヒントは、コインの裏側に潜んでいたりする。
「窮屈」と「退屈」を敢えて生産し続ける構造、仕組み、何かそういうプログラムがわざわざ組まれているような気まり悪さがあるのです。
理解はできても違和感の残る、一つの仮説
私の場づくりへの思いを生み出す、闇色の声の一つ。
「彼が彼女が本当は活躍できる人ってことになると、私の教育が悪かったってことになっちゃう」
何故か、新人若手の良い成果を報告すると、何が何でも否定に来る人がいます。それも何故か、その組織の上に位置する人が。
そもそもその人にとって、メリットがあるはずのことで。
事実、どうにか戦力になってほしい、成長を願う、というようなことも度々口にしていて。
なのに、いざその『成長』を報告すると、必死で否定しに来る。
どうにも合理性が無いように感じるけれども、こういう行動を、頻繁に目にしました。
で、それは何故なんだろうとある方に相談したとき、言われたのです。
「それはさ、やっぱり面白くないからじゃないの? 自分が『当人の問題』としてここが課題でダメだ、と結論付けたのに、それと違う結果を出されてしまったら。もともとの評価や教えた側が悪かったってことになっちゃうと思うのかも」
うーん…。私も、それは考えなかったとは言わない。
というか、ごく素直に考えれば、真っ先にその仮説が浮かびます。
でも、そう思いたくなかったのかもしれない。
そう安直に考えたくないと避けていました。
だってあんまりじゃないですか。
さらに、私の思考回路では、理解はできても違和感は残るというのも、正直ありました。
「別に、今回成果を出したことが、過去の教えた側や評価者を否定することにはならないだろ?」「それはそれ、これはこれじゃないの?」と思ってしまう自分がいました。
弱さと怯えは悪くない、けれど
そりゃ、そこを紐づけて何か面白くないことを言う人も一定数はいるのかもしれません。それに怯えているということなのでしょうかね。
でもそれって、絶対的な事実でもなく、単なる解釈の一つなのであって。
そんなの、もし自分がやってきたことに自信があるのであれば、言わせておけばいいじゃないか。
そもそも、人それぞれ合う場があり、その人の「時」があり。
それだけのはずなんだけどな、と。
そういう話をすると、さらに言われるわけです。
「しょーじぃは『そう考えられる人』なんだよ。
でも、そうじゃない人も多いんだよ」
私は、自分はどちらかと言えば臆病で、からっきし意気地のない性分だと思っているので、そう言われてしまうと「んん?」とは思うものの、まぁこれは分かります。
そして、もし私が本当に『そう考えられる人』なのだとしたら。
それは私自身の力ではなく、そう考えられる機会にたまたま、恵まれていたからです。
でも、そもそも違うのです。私は、その組織の上に位置する人が、人として弱いことを許せないわけじゃない。そういう心理はある。よく分かる。
人間は揺れ動くから、強くもあり弱いのだ。常に強くはあれないし、常に正しくもあれない。そもそも『正しい』に正解はないのだから、それはよい。
その負債を、自分より弱者に押し付けるな
それでも私は「自分が弱いということを言い訳にして、自分より弱い立場の人を貶めたり苦しめたりする」のは「違う」と思うのです。その「貶め」の中には、一見優しく守って、あるいは心配している素振りを見せて、実は対等に扱わないという失礼な行動も、含まれているよね、と思うのです。
たとえ無意識なのだとしても、絶対に「違う」と思うのです。
それだけはどうしても「仕方ないよね」で済ませたくはないのです。
そのためには、一人ひとりが、自分の中にいる凶暴な獣を見て見ぬ振りしないこと。実はそれしかないのかもしれない。
たとえ弱くても、己の内にいる凶暴な獣にだけは、負けない。
傷ついても受け入れる。誰かを傷つける前に。
勇気をもって、痛みを伴うほどの「自分」に気づくことができる。
そんな場づくりが、必要なのかなと思います。
とても、難しそうですが。