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思考を極限までゼロに近く手放して、絵を描きたい気分
脳が、何かしらの再構築を必要としてる感覚があります。
睡眠でも効果あるのかもしれませんけど、それだけだとまだ足りない。
描きたいから描くような、目的なんか最初は分からない、子どもの頃にモノの触り心地を一見何の意味もなく確かてたころと同じ感覚で、一心不乱に何かを描きたい。
絵を描くということの意味は、私の中で非常に多重で一言で言い表せない意味と価値を持っていたんだなと、少し言語化できるようになってきました。
描くことそのものへの本能的な突き動かされ感。でもそれはとにかく脳の何かとつながっていて、手を動かすとか資格情報を処理するとか、断片的なものだけではできていない。感情や記憶も関係している。
それと、描くことそのものではなくて、描いたものを誰かに見てほしい気持ちはかなり別のところにある。でも重なっているものもある。自分のアウトプットに別の誰かが最後に価値を与えてくれる感覚。誰かの気持ちを本能的に、ほんのちょっとだけ揺らしたい気持ち。
後者だけだったら、手段は絵じゃなくてもいい。この思いも強い。
でも、もし誰も見てなくても、究極世界にたった一人取り残されても、やっぱりヌラヌラと、何かの力に手を持ち上げられて描いてしまうような感覚も別にあって。
それは必ずしも、第三者との共創が最初から目的じゃない。あとから誰かとの共鳴や反発の相互作用で意味づけされることは、確かにパワフルですごいけど。なんだかもっと根源的で、起きていたら眠くなるのと何も変わらないものも奥底にある。
両方がグネグネ重なり合って、最終的に絵が描きたくて、描いてしまって、人に見せたいけど誰にも見せたくない、曖昧で切り分けられない私を作っている。
でも一方で、人の気持ちを揺らしたいとか、自分ではなぜか絶対気づけないことに出会いたいというもう一つのベクトルも、まるで化け物みたいに膨れ上がってきてしまっているから、私という入れ物が追い付かない。
だから入れ物を、必死でブラッシュアップしないといけない。
追い立てられるような思いがどこかにありながら、そんなものをMAX開放しているファシリテーターは絶対にダメだよなと、理性の塊を召喚する。
自然体ではない。でもある意味、私にとってはむしろ自然以外の何物でもない。とかく、疲れやすい性分だなと思う。でもそれは、誰しもがそうで、別に私だからではないのかもとも思う。