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良いも悪いもなく、ただ私を見つめる

「コメントの森」の中で一休み。

気づいたら「はじまりの村」にいたけれど、どうしてそこにたどり着いたんだっけ? と思うとき、少し苦い味が口の中に広がります。

記憶に残る「苦いパウダー」

いろいろな偶発性にも助けられ、私はWSD受講率フルコンプできたため、いわゆる「欠席補講課題」を提出する必要がありませんでした。

が、受講開始当初は少し危ぶんでいた日程もありました。そこで、何かあった時のためにと「読書課題」(2000字程度!)を裏でこっそり書いていました。最終的に不要になったのでお蔵入りですが、一部ご紹介します。(ちなみに、自由参加の「MyLibraryワークショップ」には、この本ではなく、全然別の角度の本を持っていきました。まだその時には、レポート提出することもあるかもと思ってたので…)

私が本レポートで取り扱う書籍は、プロダクトデザイナー根津孝太氏の著書「アイデアは敵の中にある―「結果」を出す人は、どんなコミュニケーションを心がけているのか―」(中央公論新社/2016)である。根津氏が本書で訴えるクリエイティブ・コミュニケーションとは何なのかを整理し、そこで得た気づきを今後の活動につなげたい。

根津孝太さんは、大型電動バイク「zecOO(ゼクウ)」や、LOVEをはぐくむロボット「LOVOT(らぼっと)」を手掛けるプロダクトデザイナーです。本書の中で、コミュニケーションを阻害するものは「セクショナリズムによる閉塞」であるとして、象徴的な2つの言葉を繰り返し使用しています。1つ目は「苦いパウダー」、2つ目は「デフォルトの壁」。

お蔵入りにしたレポートでは両方に言及したのですが、ここでは「苦いパウダー」について述べた部分を抜粋します。

「苦いパウダー」とはどんなものか。例えば会議の場面で現れる、自分と対立する烈しい意見。時には悪意すら伴う反対意見。これらは苦い味がする。しかしその苦味は、まぶされたパウダーの味にすぎないと根津氏は言う。本体は苦いとは限らない。むしろ、ある程度時間をかけて味わっていくと、旨みがにじみ出てくることのほうが多い。自分にとって異分子と思う人や物事の中には「おいしい実体」が眠っている。敵対するということは、自分だけでは気づけない何かが相手の中にあるのだ。敵の中にこそ、新しいアイデアがある。

WSDを受講する前のこと。運営したワークショップの後で、振り返りがきちんとできなかったんです。独学とはいえ、多方面のワークショップ本、ファシリテーション本を読み漁ってはいたので、振り返りの重要性は私なりに意識していたつもりでした。

実施時期には難ありでしたが、形として振り返り会も実施はしまして。模造紙と付箋でタイムラインで振り返ったり。一見やったテイにはなりました。でも、直感的に「これじゃダメだ!」と分かったんです。だって噛みしめた口の中がめちゃめちゃ苦かったから。

苦いだけで終わってしまって、パウダーをろ過した先の「おいしい実体」を味わうことが、その時の私にはできませんでした。

分かり合えなくても、分かち合えたはずだ

「コメントの森」でたくさんの「宝箱」を開けました。手に入れた素敵なものを眺めているうちに、「分かち合うリフレクション」という言葉が脳裏にムクムク湧いてきました。

思えば、WSDの実践の中では、学びが周回の螺旋としても設計されていました。同時に入れ子構造がたくさん用意されていました。

3か月間が壮大な1つのワークショップともいえるし。「チームでワークショップを実践する」という取り組み自体が、それも一つのワークショップだったりと、「鏡の中に鏡」の世界。

その中で、不思議にワクワク戸惑いながら過ごして。

そもそもWSDでの学びの場の設計が、異端で特殊なのではない、もっと普遍的なことなのだ。WSDはその普遍的なことを、ただ丁寧に形にしているのだ。運営側も、最初からワークショップだったんだ…と気づきました。

だから、リフレクションデザインにも、運営同士が「分かち合う」視点が必要でした。

当時の私は、ワークショップの参加者のために観察したり、足場かけしたり、段取りを重ねる意識はあっても、運営側に対しては、びっくりするぐらい冷淡だったのかもしれません。本当ならより深い「同志」のはずだったのに、何故かそこにそびえたつ壁がありました。

根津孝太さんの言葉を借りれば、それが私の「デフォルトの壁」だったのでしょう。

「痛い!」「苦い!」今の私を「分かち合う」

この壁を壊したり乗り越えるためには、あともう少し時間がかかる気もしています。

WSD修了したあの日、「明日から、いや、なんなら今からでも変わろう、少しずつ」と、決意に燃えたわけです。けれども、その翌日には、現場で今まで通りの行動をしている自分がいました。…そんなに人間って簡単じゃないんだな。

「WSD修了あるある」なのかもしれませんが、「学び」を深い部分で得ただけに、その通りにやれていない自分が、リアルタイムでよく見えるようになってしまいました。ですので、ちょっと心構えを間違えると「痛い!」「苦い!」の連続。

でも、見えていなくても、私は多分同じことをしていたはずなのです。だったら、もしこれが見えるようになっていなかったら? 「痛い!」「苦い!」と思うこともできずに、もしかしたら、ときに誰かを傷つけるかもしれないふるまいをしていたわけです。そっちのほうが、よほどぞっとする!

人間は完璧じゃないので、たぶんこれからも私の「痛い!」「苦い!」はしばらく続くと思います。でもそれが、ちゃんと前より見えるようになった。良いも悪いもなく、見えることをそのまま見つめていたい。「おいしい実体」に出会えるその日まで。

「WSD修了あるある」と書きましたが、もしかしたら、ひょっとしたら。今頃同じように、「得た学び」と「すぐには変わりきれない自分」とのギャップから「もみ返し」を起こしている誰かがいるかもしれないと思って。

「分かち合うリフレクション」を少しずつでも始めるために、今の「痛い!」「苦い!」私のことを、恥を忍んで告白しました。

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