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1.闇色の研究「逸脱への不確かな怯えを見つめて」
ネガティブもポジティブも、突き詰めると同じところにたどり着く。ヒントは、コインの裏側に潜んでいたりする。
「窮屈」と「退屈」を敢えて生産し続ける構造、仕組み、何かそういうプログラムがわざわざ組まれているような決まり悪さがあるのです。
逸脱させる方が難しいのに
私の場づくりへの思いを生み出す、闇色の声の一つ。
「仕事なのだから真面目に、逸脱せずにやるのがよい」
全身全霊で、こういう思いをにじませている人がいます。
私から見れば「『窮屈』が服を着て歩いている」ような…。
最初は「真面目で一生懸命な人なんだな」位の印象で、それはそれで、むしろ好ましくさえ感じていました。私の考えとは当然少し違いますが、その違いがあること自体は良いことだとも思っていました。
ただ、その人が部下を指導し、若手を育成する立場になってゆくにつれて、残念ながら違和感がどんどん強くなってゆきました。
「ここまで締め付けると、さすがに部下・若手いじめじゃないのか?」
そんな風に感じる時間が、急激に増えてゆきました。
その人が、目の前の誰のことも実は見ていないような、ゾワゾワとした不快感を覚えるようになりました。
逸脱を嫌う、そのこと自体よりも、その人が逸脱だとジャッジしている境界、世界の狭さの方が気になりました。その人にとっては、例えば生まれつき体の弱い人とか、自分や家族に持病がある人とか、飛び級が必要なくらい特定分野への親和性が強い人(一般的には天才と呼ばれる人)とか、ましてやセクシャルマイノリティなんて存在しないのかもしれない、そんな風に感じる瞬間が積み重なって。
「何故この方はこれほど、逸脱を煙たがるのだろう」
「人を必死で鋳型に押し込めようとするのだろう」
不思議な気持ちになっていきました。
世界の狭さ、という点に関しては、実際には私から見た印象でしかないので、もしかしたら私の受け止め方にも、何か偏りはあるのかもしれない。
でも、もう一つの視点として。「お利口さん」に育った大人を「逸脱」させる方がはるかに難しい。そして「変化に対応できる人間」になって、しなやかに乗り越えていくことが求められる現代。
「…やること逆では?」という疑問さえ、頭をよぎってしまいます。
普遍的な姿勢は大切だけど
三人称的に俯瞰して捉えれば、「相手の持つ自明性への想像力を働かせて、傾聴の姿勢で観察して、対話をしましょう」で終わってしまいます。
「『その人の立場では、これこれシカジカが不安だから、逸脱に対して厳しくなってしまうんだな』と気づきましょう。そして、対話の糸口をつかみましょう」というような、ね。それは、そうだなと思う自分もいます。
でもですね、いざその相手に生々しく向き合って。
「あなたと私」の中で起きる、瞬間ごとの葛藤と出会うとき。
普遍的で、ちょっと綺麗すぎるほど理想的な真理と向き合ってさえいれば、本当にそれだけで人間は前に進めるものなのだろうか? とザワザワする思いがあります。
「もちろん大変だよ、それは百も承知の上で、基本を守ることが大事なんだよ」と、さらに自分に反論してみることもできます。
でも、今の私にとって、心にしっくりこない。それが正直な「実感」なのだから、仕方がない。
一枚、駒が足りない盤面
目の前の葛藤を「自分事」として乗り切るためには、もう一つ(ふたつ? みっつ?)、何かをつかむ必要があるんじゃないだろうか。
教科書通りに、ただ対話の姿勢を貫こうとしても、無理だと叫んでいる。
「あなたと私」の瞬間の中で、何故かそうできない。
駒が足りなくて、このままでは詰まない。あと一枚。
その駒が何なのか、金か銀か、桂馬か香車か、あるいは歩なのか。
私にとっての「それでも乗り越える方法」を知りたいな、と思うのです。
実は、この文章を書いてみて、途中で少し気付いたことがあるんです。
何故、教科書通りの視点だけでは、納得ができないか。
私の中には、部下・若手の立場の人、顔の見える一人一人が現実として少なからず傷ついていることへの義憤の念があって。どうも、私は自分で思っていた以上に、そういう「情」の部分が強い人間だったようで。
その部分が、私の中で理論と繋がらずに、まだ置き去りになっています。