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13.闇色の研究「『教え育てる』という名の幻想」

ネガティブもポジティブも、突き詰めると同じところにたどり着く。ヒントは、コインの裏側に潜んでいたりする。

「窮屈」と「退屈」を敢えて生産し続ける構造、仕組み、何かそういうプログラムがわざわざ組まれているような気まり悪さがあるのです。

最後の、もう一つの答え

私の場づくりへの思いを生み出す、闇色の声の一つ。

「教わろうとしないのが悪い」

これも、興醒めする理由は「教えてくん」「教えてちゃん」自身でもない。逆に、例えばすっごいピリピリしながら「質問に来い」「背中から盗め」とか言っちゃうベテランさんとかやり玉に挙げられがちですけど、それに対してでもない。

この言葉のさらに背後に感じられる、もっとガチガチでギチギチの塊。
その触感に、ゾワゾワするのです。

ある人と別のある人がいたときに、そこに、ただ一方通行の「教える、教えられる関係」なんかないよね、と、私は心のどこかで思っていたのだと気づきました。

そうかもしれないけど、あくまでも一側面だけ切り取れば、教える、教えないになった方がよい場面はあるでしょ?
たとえば社員の新人研修だったり、OJTだったら、教える側だって、むしろその自覚をきちんと持って、やらないとダメでしょ?

という反論はもちろんあるだろうなと思うけれど。

それは、もちろんそうです。
でもその関係は、あくまでも個別の『状況』に付随するものであって、『人』に帰属するものじゃない。『人と人』の間で固定化されるものじゃない。

オブジェクト指向的に、図でも描いて整理したいくらい。

『教え育てる』という処理(操作)は、『人』に従属するものでもなければ、『人と人』という関係に紐づくものでもない。

人と人の間に、あくまでも一時的に、局所的に、時に偶発的に生まれる。そんな個別の『状況』のなかに『教え育てる』がある。

極めて、極めて限定的な、生存期間の短いもの。そういう構造だから、人と人の間で見つめれば、当然双方向にヌルヌル生まれて消えてゆく。

だから、ある人が別のある人を思い描いたときに、もしそこに「教え育てる」一方通行の線を、ただ一本だけ引くのであれば、それは幻想みたいなものだと私は少し苦々しくさえ思ってしまうのです。

これが、WSD受講中に私の引きずっていた「正統的周辺参加」に対するモヤモヤの正体なのかもしれません。

たぶん、本質的には矛盾や競合しているわけじゃなくて。
私がこの理論の本質とか、深いところに迫っていないから、そこが腑に落ちていないだけなのではないかな、という気もします。

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